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English - Japanese translator

セクシーな 

翻訳していて困る形容詞のひとつに「sexy」がある。

文字通りの性的魅力をさすのとは別に、「かっこいい」「イケてる」「魅力がある」といったような価値をあらわして、昨今ほとんどどんなものにも使われる。

この間翻訳した新しいレストランを紹介する記事で、内装が「tres sexy」という文章があった。有名シェフがプロデュースする店の洗練された都会的なインテリアの店内を「すごくsexy」といっているのである。

「超セクシーなレストラン」なんて日本語にしたら、違う分野のサービスを提供する店だと受け取られてしまう率が70%くらいなのではないか。
ここは悩んだ末、「目を奪われるほど麗しい」とした。ややひねりすぎではあるが、100%手放しで褒めてるというのではなく、0.05%くらいの毒気を含んだつもり。

『リーダーズ英和辞典』には
-a.性的魅力のある、色っぽい、セクシーな。性に取りつかれた。<広く>魅力的な、人目をひく、かっこいい
とある。

オンラインの『Oxford Living Dictionary』には
•    Sexually attractive or exciting. (性的魅力がある、エキサイティングである)
•    (informal) Very exciting or appealing.
(俗語)非常にエキサイティング、または惹きつける。

とあって、こんな例文がのっている。

‘business magazines might not seem like the sexiest career choice
「ビジネス雑誌での仕事というのは最高にsexyなキャリアとは思えなかったかもしれない」

‘The interesting thing is that sexy wines tend to come from certain grape varieties and wine growing areas.’
「興味深いことに、sexyなワインというのは特定の種類のブドウから出来、特定の産地で生産されるものだ」

‘Milgram was a whiz at devising sexy experiments, but barely interested in any theoretical basis for them.’
「ミルグラムはsexyな実験を考案することにかけては天才的ではあったが、その基礎となる理論については大した関心を持っていなかった」

この最後の例文がさしているのは、性的な行動についての実験ではない。電気ショックを与える係に任命された人が、閉鎖的状況で権威ある人に命じられると迷いながらも被験者に苦痛を与え続けてしまう場合がかなり多いという結果で世間に衝撃を与えた、有名な「ミルグラム実験」を考案したミルグラムさんをさしているのだと思われる。

今でも賛否両論あるこのひどい心理実験のどこがsexyだと言っているのかというと、誰にとっても分かりやすく簡単な仕掛けで、話題にしやすく、人の関心をひき、それまでの常識をくつがえす衝撃を与えたという点なのだろうと思う。
言い換えるなら「センセーショナルで洗練されている」といったところか。

英辞郎くんにも
〈話〉〔物事が新しくて〕格好いい、人目を引く
という説明があるが、うーん、ちょっと残念。
セクシーの魅力は「新しくて」ではないんだよね。格好いいのは確かだが、人目をひくだけではないのだ。

たとえば駅前に新築されたでっかいイオンが新しく人目をひいても、それがセクシーだとは限らない。たぶん違う。

その新しさがセクシーなら、そこには官能的な驚きと、欲望を刺激するという含みがある。
だから、たぶん少し毒がある。

sexyという形容詞は、とりもなおさず、男性もしくは女性の性的魅力に類似したような引力、ということだ。魅力的な人が放つ、異性も同性も有無をいわさず惹きつける力であって、そして同時に、少し浮わついたような、用心ならないようなところもある、というほのめかしがあると思う。
まったく毒気がないとか、100%の安全保証がついているとかのものは、たぶんセクシーではない。

Sexyなものは、きっと人の存在をどこかおびやかすような<キケンなかほり>を持っているのである。

たとえば上の例でいえば、「sexyな心理実験」というのは、手順が煩雑で説明するのにも時間がかかるけれども学問的に意味のある地味な実験、とは多分対極にあるのではないだろうか。

Googleが電子化した書籍に出てくる言葉の用例数をごっそり視覚化してくれるNgram Viewerで検索してみると、[sexy]の用例は1940年代から1960年代にかけてゆるやかに増え、1960年代以降、迷うことなく一直線に急上昇している。

ちょっと思いついて[cute]と比較検索してみた。

1960年代〜80年代に急激に[sexy]が追い上げ、[sexy]が[cute]を追い越すほどの勢いであったものの、70年代から急に[cute]も[sexy]と同じ上昇気流に乗り、後は双子の超優良銘柄のように[sexy]と足並みを揃えて上昇している。面白いー!

さらにここに[delightful][charming]という、19世紀の良家の子女のようなお行儀の良い褒め言葉を入れてみるとさらに面白い結果が。

[delightful][charming]は共に1930年頃から確実に凋落の道をたどっていたが、そろって2000年以降ゆるやかにまた上昇している。全体数では[sexy]と[cute]にまだ勝ってはいるものの、20世紀後半に急に追い上げたこの2つの単語との距離ははっきりと縮まって、いまやほとんど同じレベルにあるといっても良さそうだ。

この結果だけでもちろん言葉の用例がすべて代表されているわけではないし、重要性が計測できるわけでもないのだけれど、見事に世相を反映しているのは確か。

ロックンロールとミニスカートの1960年代以降、[sexy]について語る書籍が雨後のタケノコのごとく増えたのは当然だし。

女性は足首をみせることも許されず、もちろん性について公に語るのもタブーだったフロイトの時代から100年以上たち、いろんなフタが次々に外れて、それまでの社会にあったピューリタン的な縛りが消えてなくなるのと同時に、[sexy]は閉じ込められていた巣箱から飛び出したハトのように一直線に急上昇している。

アメリカでは、もはや[sexy]は社会通念上主要な価値観になってきている。[sexy]なものは明らかにパワーを持っているのだ。

それで、なぜこの言葉の翻訳に困るかというと、いつもいつも「魅力的」ではつまらないし、[sexy]が微量に含んでいるキケンなかほりとか毒をうまく表す日本語がなかなか見つからないからだ。

「婉然」とか「艶やか」などにはちょっと官能的なかほりがするけど、使える文脈は限られている。
今日流通している日本語の中に、 [sexy]にあたるような色っぽい便利な言葉がないのは、きっと社会が認める価値観が微妙にズレているからなのだと思う。

アメリカでの [sexy]という価値観が「ヘルシー」とか「ポジティブ」というのと同じように、ほぼ反論の余地なくあからさまに崇められているのに対して、日本では今のところ、 [sexy]は少なくとも表向き、まったく崇められていないような気がする。

性的な含みのある価値観は今のところの日本語界では文字通りイロモノ扱いで、少し遠くから慎重な距離をおいて、なにかあれば口の端に冷笑を浮かべる用意をしつつ見守られている感じである。
もちろんセクシーなるものに日本で需要がないわけではなくて、絶大な需要がありマーケットがあり百花繚乱なのはわかっているけど、その世界は日常生活とは距離があり壁があり、日常のほうからもあまり簡単に近づけないっぽいのだ。

では日本語界の「魅力的」というジャンルでどんな形容詞が権力を持っているかというと、それはきっとダントツで「かわいい」なのではないかと思う。
「カワイイ」には絶大なパワーがある。それは今の日本で売れている女優さんやアイドルたちをみれば一目瞭然だ。

そういえば、10年位前だったか、塩野七生さんが、日本の男優には大人の色気がないと嘆き、当時絶大な人気だったキムタクを見てなんと幼い顔だろうとおどろいた、というようなエッセイを読んだ覚えがある。その時はへーそういう感じ方もあるんだ、と思ったが、何世紀もの間ブレることなく色気至上の国であるイタリアから来た人には、その印象はまあ当然なのかもしれない。

なぜ日本ではカワイイのほうがセクシーよりも偉いのかについては、きっといろんな論があるのだろうけど、私は、江戸時代に町人文化の重要な部分を「悪所」である遊郭が担っていて、それが明治から昭和にかけて表向き徹底的に抑圧されたのが理由のひとつじゃないかとひそかに思っている。

江戸の町人の言葉の中には[sexy]に相当する単語が多かったんじゃないだろうか。「いなせ」とか「あだっぽい」とか。残念ながらそんなに翻訳には使えないけど。

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Desire あらまほしき(欲望)

2016-0928-1

「desire」という英単語をポジティブに日本語に訳すのが難しい。

たとえば高級リゾートホテルやスパの宣伝などにも、desireという言葉はさらっと使われていたりする。

これを

「あなたの欲望のすべてを満たす贅沢なスパ体験」

なんて日本語にしてしまったら、なんだかやたらにギラギラした、方向性の異なる施設のように聞こえてしまう。
この場合は「欲求」でも「願望」でも「希望」でも、ヘンである。

『リーダーズ英和辞典』の訳語は
(n)欲望、欲求、…心(欲)、好み、性欲、情欲、希望、願望、要求、要請、望みのもの。
この中では「望み」というのが一番穏当な日本語ではあるが、望みという言葉はお行儀がよくて、淡白でよそよそしい印象がある。
えーと、だめなら別にいいんですけど…と、最初から少しあきらめ気味な感じでもある。

その点desireは切実で、それが実現しないといてもたってもいられないのである。

そういえば中年以上の皆様にはなつかしい中森明菜のdesireには、「情熱」というサブタイトルがついていた。熱いのである。

desireの兄弟にgreedというのがある。
『リーダーズ』ではgreedは
1.    (特に富・利得に対する)意地汚い欲望、貪欲、強欲。2.食い意地、大食。
と説明されている。

Oxford英英辞典では
desireは
A strong feeling of wanting to have something or wishing for something to happen
(何かを手に入れたいと欲する、または何かが起こることを願う、強い感情)
とあり、
greedは
Intense and selfish desire for something, especially wealth, power, or food
(特に富や力、食物に対する烈しく、身勝手な欲望)
とある。

desireとgreedの違いは、「身勝手」であるかどうかのようだ。

自分やまわりを傷つけることに頓着せず、欲求だけに盲目になっている状態がgreed。
たとえば『千と千尋の神隠し』のカオナシは、迷えるgreedの権化でしたね。

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「おいしいご飯が食べたい」と心の底から願う気持ちがdesireであるのに対して、greedには、まわりの人が飢えていても自分の穀物倉に食料を貯め続けるとか、人の手からオニギリを奪って食べるとか、あるいはもうお腹がいっぱいなのに飽き足らずご馳走を目の間に並べてしまうとか、そういう前提がある。
desireが暴走した状態がgreedなのだといえる。

greed といえば、映画『ウォール街』(1987年)でマイケル・ダグラスが演じるゴードン・ゲッコーのセリフが有名だ。

The point is, ladies and gentleman, that greed — for lack of a better word — is good.  Greed is right.  Greed works.  Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit.  Greed, in all of its forms — greed for life, for money, for love, knowledge — has marked the upward surge of mankind.  And greed — you mark my words — will not only save Teldar Paper, but that other malfunctioning corporation called the USA.

「いいですか、皆さん。他にもっと良い言葉がないのでgreedと呼ぶが、greedは善いものです。greedは正しい。greedは物事をうまく回らせ、はっきりさせ、道を拓き、前進する精神のエッセンスを表している。あらゆる形のgreed、生命や金や愛や知識に対するgreedが、人類を進歩させてきたのです。Greedは、この会社を救うだけではなく、アメリカ合衆国という、この機能不全の組織をも救うのです」

この臆面もない欲望礼賛のスピーチは、観客をはっとさせ、この人物の狂気スレスレで回っている自信とパワーをものすごくよく代弁して、80年代映画を代表する名セリフの一つにもなった。

日本語字幕でこのgreedがどう訳されたのか気になるところ。「貪欲さ」かな。いずれにしても、greedというネガティブな言葉が表すところの、普通なら眉をひそめるべきなりふり構わない自分勝手で迷惑な力を全面的に肯定したところに、このセリフの破壊力があった。
オリバー・ストーン監督の意図とはうらはらに、ゲッコーに心酔してしまった観客も多かったという。

ゲッコーはもちろん、desireとgreedをすり替えている。
これがdesireだったらごく当たり前のスピーチであって、ちっとも衝撃的ではないのだ。

こうありたい、こうなりたい、もっと知りたい、もっと速く動きたい、もっと遠くへ行きたい、もっと美しくなりたい、もっと美しいものが作りたい、あの人と一緒にいたい、これが食べたい。生きていたい。…というような強い望みは、すべてdesireである。

desire は、人がなにかをする原動力だ。人間だけではなくて、どの生きものにも備わっている、根源的な力なのだと思う。
植物が土と水さえあれば根を張ってどんどん葉をのばしていくのをみていると、生命活動というのはすなわちdesireそのものなのだと思わされる。

Desireがgreedに変わるのは、リソースを奪い合う他の個体との軋轢による。
ほかの木を枯らしても自分の場所を確保しようとする植物は、人間の目に強欲にうつる。
たらふく食べたいという願望が心にあるだけの間は平和だが、一つしかないオニギリを飢えた子どもたちと分け合わねばならないとなったら、そこには人がgreedにおちいる舞台が用意されている。

西洋社会、とくにアメリカでは、明らかにgreed(強欲)に陥っていない限り、desire(素直な欲求、欲望、望み)はデフォルトで礼賛されている。
ゲッコーのスピーチのgreedをdesireに変えれば、たとえば教会の牧師さんが日曜の礼拝で言っても不思議ではない。
「わたしたちはこのように切実な願いを持っている。このdesireが神の目にかなうものなのであれば、神はわたしたちを祝福してくださるでしょう」
というように。

西へ西へと国土を広げてきたアメリカという国では、たぶんほかの西洋諸国よりもずっとこの傾向が強いのだ思う。
だだっ広い大平原に出かけていって家を建て、畑をつくり、街を築くには、強いdesireが必要だ。
それはもちろん、そこにもとから住んでいた先住民にとっては大変迷惑なことではあったが。
そのようにして道を切りひらき成功した人をアメリカは手放しで讃えるし、たぶん多くのアメリカ人にとっては「自分のしたいことを追求するあまりちょっとばかり人の迷惑になってる人」と「desireがないように見える人」を比べたら、ちょっとくらい迷惑である人のほうに強く共感できるのではないだろうか。
desireがないというのはつまり、ちゃんと生きていないということ、という考え方なのだ。

それに対して日本語では、desire的な状況がかなり蔑視されている気がする。

これには仏教と儒教の影響があるのだと思う。

この世の苦しみから自由になることにフォーカスしている仏教では、「欲」は基本、真実の平安へと至る道の障害物として取り扱われる。

儒教はよく知らないけど、たぶん個人の欲望とはあまり互換性がない教えではないかと思われる。

かといって日本にdesireのニーズがないわけではもちろんないので、そのニーズを受け止めてくれるのは八百万の神様たちであろう。

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苦しいときに救いを求めて祈る対象は仏でも、個人的なdesireを聞き届けてもらいたいと願う先は、あちらこちらの神社の神様や、あるいは仏教にとりこまれた眷属たちでなければならない。
仏様のところにそんな願いを持っていっても、「まだわかってないね。万物は空なのだよ」とやんわり諌められてしまうに違いない気がするからだ。

日本では長いこと、仏教と儒教と、あらゆる場所にいるいろいろな神様に役割分担がふられてきた。
Desire部門はおもに神様たちの担当だったけれど、そこに体系的な教義のバックアップはなくて、どちらかというとアドホック的なご担当だったと思う。

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権力を持つインテリ層のほとんどは仏教か儒教の勉強をしている人びとだったので、日本人の精神生活の中ではdesire的な状況は蔑まれる傾向にあったのではないか、なんて思う。欲などはしょせん知恵や修行の足りない大衆のものだったのだ。

庶民文化ではもちろん欲望が全開で花開いていたけれど、それも仏教や儒教が上に控えてフタをされていたために、ちょっと面白いねじ曲がり方をしてるんだと思う。日本文化の中にデフォルトで入っているホンネとタテマエのこの二重構造はとても面白い。

言葉は文化が作るもので、その中で生活する人びとはその文化と言葉の影響を受ける。
そして言葉は、何百世代にもわたって受け継がれている集合的な記憶と知識のあらわれでもある。

いまから千年後にまだ日本語を話す文化があれば、そこではdesire的な状況を示す日本語はもっと楽観的で気さくなものになっているような気がする。

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Engage エンゲージ 

2016-0909-1

語学学習者の中にはたまに、辞書に載っている訳語がその単語のすべてであって、言葉というものは地図の記号や化学式かなにかのようにゆるぎない「一対一対応」である、と思い込んでいるらしい人がいる。

もちろん、そんなことはない。

どんな国のどんな言葉も、単なる記号ではない。

言葉は文化であり、思想と感受性の反映であって、使う人あってのもの。
時代が変わり、生活と考えかた、ものの感じ方が変われば、当然言葉も変わる。

そして、その言葉が表す考え方、感じ方というのは、ほかの国の言葉にそっくりニュアンスを損なわずに移し替えるのが難しいことが、かなり多い。

辞書に載っている訳語は編纂した人びとが苦労して集めた「そっくりさん」たちなのだ。

日頃、英語と日本語の単語を相手にしていて、すっきり翻訳できる言葉や概念というのは、もしかして例外的なのではないかと思うこともある。

たとえば、とても翻訳しにくい言葉のひとつに「ENGAGE」というのがある。

日本語の中に入り込んでいる「エンゲージ」は「婚約」だけれど、それはこの言葉がもつ意味の中の、ほんの一部にすぎない。

「リーダーズ英和辞典」の訳語では、
(自動詞)
1.約束する、請け合う、保証する
2.従事する、携わる、乗り出す、参加する、関心をもつ、かかわる、交戦する
3.(歯車などが)掛かる、かみ合う、はいる、連動する
(他動詞)
1.         契約(約束)で束縛する、保証する、婚約させる、雇う、予約する
2.         従事させる、交戦する、(会話などに)引き込む、注意をひく、魅了する
…などがあがっている。
でも、ここに並んだ訳語を見ても、この言葉のイメージはつかみにくいのではないだろうか。

Google によると、engage の語源はフランス語で、もとは「なにかを担保に誓約する」という意味の単語だったそうだ。それが「契約」の意味を帯び、やがて「なにか、または誰かに深くかかわる」という意味になってきた、らしい。

いまのアメリカ英語では、「engage」はビジネスの場面でも、日常の場面でも、わりと頻繁に使われる。

会話にengage するといえば、スマホをいじったりせずに相手の言うことに注意と関心を向けて会話をする、ということ。

企業の多くが、社員がengageできる会社にすることを目標のひとつに掲げている。
仕事にengageしている社員とは、主体的に意欲を持って仕事に取り組み、会社の成功に対して当事者意識を持っている社員のこと。

engageは最近流行のマーケティング用語でもある。いかに多くの人に製品やブランドにengageしてもらうか、についてたくさん本が書かれている。
ブランドにengageするとは、そのブランドを自分の生活と価値観の延長として愛着を持つこと、を指す。

このマーケティング用語としてのengage/engagementという概念は、最近、日本でも「エンゲージメント」とカタカナ語になって輸入されている。

これらの文脈のengageとは、つまり、「主体的になにかの対象に意識を向け、働きかける」ということだ。

感覚としては「身を入れる」というのが近いのではないかと思うけど、「身を入れる」という言葉には、相手についての意識が低い。
engageには双方向の意識がはたらいている。
日本語には「engage」が表現する「歯車が噛みあうようにしっかり対象に向き合う/向き合わせる」をコンパクトに表す単語はない。

訳語としては、だから、その文脈によって「つながる」としたり「魅了する/される」「惹きつける」などいろいろひねり出したり、流行のマーケティング用語にならってカタカナを使ったりすることになる。

Google Ngram Viewerを見ると、19世紀初頭をピークに減っていた使用例が、60
年代からゆるやかに増え続けている傾向がわかる。

https://books.google.com/ngrams/graph?year_start=1800&year_end=2008&corpus=15&smoothing=7&case_insensitive=on&content=engage

20世紀後半、第二次大戦後に育った若者が大人になった頃から、アメリカ社会は激しく変わった。これは世界的な傾向ではあるけれど、とくにアメリカは、世界で最も豊かで最もひどい矛盾を内側に抱えた国家として、世界の中で真っ先に数々の大騒乱を巻き起こしてみせた。

公民権運動、反戦運動、東洋思想への傾倒、ウーマンリブ、フリーセックス、ドラッグ、ロックンロール、そして、やがてその後半世紀かけて人々の生活を完全に変えてしまう情報技術の台頭、経済の加速。

白人男性のエスタブリッシュメントたちが政治や経済を取り仕切っていた社会から、多様な背景・価値観・文化を持つ人々とつきあい、互いの価値を認めざるをえない社会へ。そして経済もテクノロジーもますます加速し、価値観が日々更新される目まぐるしい社会へ。アメリカは先頭をきって変わっていった。

Engage という単語は、そうした多様化しつつあらゆる面で加速する社会の中で個人に要求されている心の状態を、はからずも象徴しているように思える。

相手の注意をがっしりと捉える。意識を最大限に集中して主体的にその場に(あるいは人やモノに)向ける。

少し目を離しているとテクノロジーも政治も経済も社会の制度も常識も、どんどん変わっていってしまう。社会の中になにがしかの位置を占めたいなら、そのスピードについていかねばならない。

アメリカ企業のカルチャーの中では、常に変化についていくために、周囲のすべてに「エンゲージ」していることが要求される。

「Engage」は、1980年代後半からオンエアが始まった『新スタートレック』(原題は「スタートレック:ザ・ネクスト・ジェネレーション」)のピカード艦長のセリフとしても有名だ。

USSエンタープライズをワープ航法に切り替えて、光よりも速く移動する時に、ピカード艦長が全士官に出す命令が「エンゲージ」である。

この言葉の性格は、このピカード艦長の命令にとてもよく表れていると思う。

新時代には、みんなワープの速度で飛んでいかねばならないのだ。

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Reductionism 還元主義 

2016-0724-1

人間の知性や精神は、オーブントースターやクルマのメカニズムと同じように、小さな部品に分解していけるものなのだろうか?

「そんなものはできるに決まっている」とする考えかたを、還元主義(reductionism)という。

「還元主義」という日本語からはあまりピンと来ないけれど、reductionismという言葉には、なにもかもを単純な原理と単位にreduceしてしまう、つまり「矮小化する」「意味のないほど小さなものにしてしまう」というニュアンスがある。

どんなに複雑なシステムも、より単純なシステムに分解できる。というのが基本の考えで、もともとはデカルトさんが17世紀に書いた『方法序説』に端を発するといわれているそうだけど、現在ではこの言葉は自然科学から数学から社会学から、いろいろな分野で少しずつ違う理論に使われていてすごくややこしい。

ここでは社会学/神学/心理学に絞った話をすると、19世紀にダーウィンの進化論に刺激を受け、神とその原理という輝かしくて神聖なものと人間の絆を教えるキリスト教に対して、高らかに誇らしげに「そんなもんねえんだよー!」と宣言したのがreductionismの人々なのである。

夢判断のフロイトさんもその先鋒。精神病理は抑圧された欲望の引き起こしたものだという思想をさらに宗教全般に当てはめて、その著書『トーテムとタブー』で、宗教や芸術の起源はエディプス・コンプレックスだと言い切っている。つまり、宗教というのは病にすぎないと。

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こんな「還元主義」に対して、もちろん、聖なるものを信じる側の人々は激しい批判を展開してきた。

多分、宗教学や心理学方面の分野で「還元主義」という言葉が使われるようになったのは、人間の精神世界をreduce(矮小化)することを批判する立場からなのだと思う。

GoogleのNgram Viewerによると、reductionismという語の用例が急激に増えたのは1960年代以降で、1940年まではほとんど使用例がない。

宗教学者のエリアーデが反還元主義の代表選手だったし、『夜と霧』で有名な心理学者フランクルも、還元主義はニヒリズムを生むと批判している。

還元主義というのは、対立する立場の人びとからすれば「レイシズム」並みに忌むべき考えかただと言っていい。

ただし、レイシズムと違うのは、批判されている側が、その考えかたこそ人類の持つべき態度だと思っていること。まったく平行線なのだ。

フロイトさんたち還元主義の人々の主張は、単に自然科学の視点からこの結果が導き出されたという淡々としたものにとどまらず、それまでの教会の教えに基づく権威に対する、悪意といってもいいような反発を含んでいるように見える。

それはもちろん、相対する教会側の敵意を反映したものだ。

そしてこの構図は、いまもほとんど変わっていない。

2008年にロンドンの自然史博物館で行われた、進化生物学者のリチャード・ドーキンスと数学者で哲学者でクリスチャンでもあるジョン・レノックスのディベートにも、その対立構図がくっきり。この討論はYou Tubeで現在も公開されている。

討論のお題は「科学は神を葬ってしまったのか? 宗教はもう時代遅れになったのか?」というもの。

リチャード・ドーキンスは徹底的な無神論の立場から、「宗教はかつて人類が必要としたおとぎ話であり、我々はもうそんな子ども時代の幻想なんか捨てて大人になるべきだ」と主張する。

これに対して、ジョン・レノックスは、信じることの有用性を語っている。

信仰は人びとを実際に救い、人生を豊かにする。とにかくそれは事実であるのだ、と。

わたしは、ドーキンスの苛立ちも分からないことはないけれども、この世に神はいないと主張しても、べつに何一ついいことはないと思う。

「神か、科学か」を選ばなければならないというドーキンスの二者択一的な無神論の立場は、それと真逆の、自分の信じる聖典(コーランなり聖書なり仏典なり)に書いてあることの字義通りの解釈のみが正しいと主張する宗教原理主義者の立場とそっくりだ。

宗教原理主義者と戦闘的還元主義者に共通しているのは、「わたしの見ている現実がこの世で唯一の現実」だと主張してやまないこと、それをすべての人に押し付けようとしていること。

レノックスは現実主義で、「べつに真理とかは一つでなくてもいいじゃないか、それよりとりあえず結果が出ていることを大切にしよう」という立場。わたしもそう思う。

信仰する人にとって神は現実である。

それは本当に本当の現実であって、実際に奇跡は起きる。

歴史のはじめから人は神と対話をしてきたのだし、何千年もかけてその対話システムを更新してきた。20世紀以降、人類は色々なシステムが共存する世界をなんとか平和に維持しようとしてきたのではないか。

頭脳の数だけ現実があるのだから、神を信じる人に対して信じない人が「神などいない」と大上段に構えて言ったって、対話は始まりはしないし、信じる人が減るわけもない。無益なケンカが増えるだけである。

2016-0724-4

教会に通う人が激減し、「世俗化」が進んでいるとはいっても、アメリカ人の70%は自分を「クリスチャン」だと考えているという。ただしそのうち4分の1は特に教会に通ってはいない。既製の宗教に進んで参加する気はなくても、育ってきた社会の背景に織り込まれていた神を積極的に否定するつもりはない、という人びとだと思う。

宗教に対するこの態度は、日本とさほど違わないんじゃないかという気がする。もちろんアメリカは場所によってまったく思想が違うので、熱心な原理主義的な宗教者が集中しているところも多いのだけど、すくなくとも都市部では、そんな態度の人が多いように思う。

一方で、日本人には、「自分は無宗教」という人が多いけれど、完全な「無神論者」という人はやっぱり少数派のようだ。

ICUの教授が学生を対象に行った調査によると、80%を超える回答者が「特に信奉する宗教はないけれど、何らかの神のような存在は信じる」と答えているという。

つまり、現時点ではまだ日本でもアメリカでも、多分ほかのどの国でも、大多数の人びとが何らかの形で神様、超自然的な存在、または超越的な存在を信じているし、必要としている。

そうして、ドーキンスのような還元主義者と、熱烈な宗教原理主義者とがバトルを繰り広げる傍らで、状況は静かに変わりつつあるのだと思う。

松尾豊さんの著書『人工知能は人間を超えるか』を読んでいたら、次のような一節があった。

「脳は、どうみても電気回路なのである。…人間の思考が、もし何らかの「計算」なのだとしたら、それをコンピュータで実現できないわけがない」

人を超える知能ができると信じる立場、これは究極の還元主義だ。

人間の知能を超える「本当の」人工知能が実現する可能性を荒唐無稽と考えている人は、人間の精神活動のすべてが計算/データであるとは認めないか、計算である可能性を考えてみたことがないかのどちらかだ。

いまのところ、まだヒトの意識というのは何なのか、どういうふうにできているのか、それから生命はどうやって発生するのか、とかそのへんが完全に解明されたわけではないから、還元主義者と神を信じる人の間で、決着はついていない。

でも、実際に人間の知性が再現できてしまったらドーキンスのような戦闘派還元主義者の究極の勝利になるかというと、意外とそうではないような気もする。

2016-0724-3

「真理」のしくみは人間の知性には複雑すぎて、すべてを理解できるのは人工知能だけ、ということになるかもしれない。

そのとき、人工知能は「神」に出会うのかもしれない、なんて気もする。

だってね、すべての人間が本当に神を必要としなくなる社会がきたら、その人類はもういまの人類とは決定的に違った存在になっているはずではないでしょうか。

 

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Dichotomy 二分法

2016-0526-1

アメリカ人、に限らず多分「欧米人」の好きなセリフに、「世の中には二通りの人間がいる…」というのがあります。

「世の中には二通りの人間がいる。何かを成し遂げる人間と、何かを成し遂げたと主張する人間だ。最初のグループのほうが、ずっと少ない」

というのはマーク・トウェインの言葉だそうです。

「世の中には二通りの人間がいる。知りたいと願う人間と、信じたいと願う人間だ」

というのはニーチェ。ふふふ。いかにもですねー。

「世の中には二通りの人間がいる。与える人と受け取る人だ」
「世の中には二通りの人間がいる。言い訳ばかりしている人と、黙ってさっさと行動する人」
「世の中には二通りの人間がいる。一緒にお酒を飲みたいと思わせる人と、酒でも飲みたいと思う気持ちにさせる人」

…と、この辺はセルフヘルプの本とか、引用句を投稿するのが好きな人のフェイスブックのタイムラインによくでてきそう。

西洋の人がどのくらいこの二分法が好きかというのは、「There are two kinds of people in this world 」で検索してみるとよくわかります。

「世の中には二通りの人間がいる。ピザの耳を食べる人間と食べない人間だ」
「フライドポテトにケチャップをドバドバかけてから食べる人と、ちびちびつけながら食べる人」…

こういうどうでもいい二分法は楽しいです。

わたしは個人的には

「歯磨きのチューブを真ん中から押す人と、端からきちんと押す人」

というのは、かなり重要な分類だと思っています。

2kindsofpeople」というTumblerのページには、いろんな「二通りの人」の図解が。ポルトガルのアートディレクターさんの作品です。
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二分法はたしかにとても便利です。

ただし、それはとても限定された範囲での便利さだということを忘れてしまうと、あとあと面倒なことになるのだと思います。

10代のとき、ピアノの先生に「ソナタ形式」というのは第一主題と第二主題の対立が提示され、その葛藤が展開部でいろいろと戦いを繰り広げ、再現部で主題が弁証法的融合をみるのだ、と教わりました。

これは文明の産んだもっとも優れた世界認識の方法のひとつ、とJ先生は力説していて、10代のわたしはスゲー、と恐れ入って脳裏に刻みつけたのですが、別にその後ヘーゲルを読みふけったわけではないのでベンショウホウテキユウゴウとか止揚とかが実際なんなんだかはあんまりよくわかりません。そしてJ先生の力説していた内容の8割くらいは忘れてしまっているので、たぶん肝心なところが抜け落ちているのかもしれません。

だからアレではあるのだけど、ともかく
「人間は、対立する二項目で世界を認識するのがデフォルト」
というのはほんとだよな、と、これまで生きてきて目撃した中ではそう思います。

何かと対比してみて、「〇〇ではない」ということが分かって初めて、「XXである」ということの意味が分かる。

「世の中の人間には…」にたまに3通りバージョンがあることもあるけど
(「人間には3通りある。困難なときにあなたを助けてくれる人、困難なときにあなたを見捨てる人、そしてあなたを困難に陥れる人」というのも有名らしいです)
これはたいていの場合、二分法のバリエーションと考えていいと思います。
(映画『アメリカン・スナイパー』に出てきた、羊と狼と牧羊犬、というたとえは本当の3分割だと思うけど、それはまた置いておいて)

で、世界を認識するためには二分法で分けて考えるのは便利だしステップとして必要だけど、それが普遍的とか不変の真理だと思い始めると、きっとその瞬間から世界はやせ細っていくことになります。

展開も再現もしないで提示部だけずーっと永遠に続くのは、それは閉じたゆきどまりの世界。

なんか最近、ネットの言説をさらっと見ていても、便利なカテゴリー分けが好きな人が多いのかな、なんかやだな、と感じるようになりました。

世界には二通りの人間がいる。型にはまった考え方を好む人と、型について考える人。

なんてね。

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Mind Wandering 意識がウロウロ

2016-0127-1-2

このあいだ、夕飯をの支度をしながらポッドキャストのTED Radio Hourで「ハピネス」というテーマの番組を聴いていたら、「人の幸福度とmind wandering をしていないことには相関関係がある」という研究結果を発表している人のトークが紹介されてました。

マット・キリングワースさんという科学者の発表です。
トーク自体は2011年のもので、日本語字幕つきのバージョンがTEDのサイトで紹介されています。

彼の研究は、1万5000人という膨大な数の人を対象に、モバイルアプリで「今、この瞬間に幸せか」「何をしているか」などを選択して答えてもらうというもの。
そうして集めたデータで、幸福度は、何を持っているかとか何をしているかよりも、「mind wandering」していないとき、つまり目の前のことに没頭しているときに高い場合が多いことがわかったのだそうです。

気が進まない仕事をしながら他の楽しいことを考えているよりも、気の進まない仕事に集中して取り組んでいるときのほうが幸せである、たとえ渋滞に巻き込まれていても、車の運転だけに集中している人のほうが、その瞬間は幸せである場合が多いというのです。

渋滞の中はともかく、これはきっと多くの人が実感していることではないでしょうか。

この結論は、心理学者のミハイ・チクセントミハイさんが発表している「フロー」の理論とも重なります。

で、ポッドキャストを聴きながらその「mind wandering」というキーワードは日本語にするならどう訳すかなと考えていたのですが、トークの日本語字幕ではひとつの訳語をあてず「注意散漫」「他のことを考える」「気が散る」など、文脈に合わせて柔軟に訳していました。無理なく頭に入る素晴らしい訳だと思います。

が、あえてこの言葉だけ取り出すとしたら、どんな訳がいいか。

わたしは個人的に「意識がうろうろ」する、というのが一番しっくりくると思う。
TEDの人には却下されるだろうか。

ああ、また意識があてのない旅に出ようとしている、または出てしまっている、と思う瞬間が、1日のうちにいったい何度あることか。

チクセントミハイさんは、その人がしている行為のチャレンジスキルがどちらも高いとき、人は「フロー」の状態に入りやすくなると解説してます。
「フロー」の状態とは、無我の境地ともいえるもの。自分も時間もなくなり、完全に目の前のことに没頭し、結果が出せると確信している、そのことや自分の行為について意識してさえいない状態。仕事でも芸術でも、生活のどんな場面でも、フローの時間が多ければ多いほど幸せってことのようです。

「意識がうろうろ」するのはきっとスキルとチャレンジが釣り合っていないときに起こりやすいのでしょう。
私はとっても意識がうろうろしやすいタイプ。

翻訳の仕事中「フロー」に入っているときは確かにとても幸せだといえるのですが、意識がものすごくウロウロすることも、ものすごく多い。とくに何かちょっとややこしい文章を解読しようとしたり、馴染みのない概念についてリサーチしようとしているとき、意識はもう大変な勢いでウロウロしはじめます。

インターネット空間は、意識がウロウロするのには本当にもってこいの環境ですね。

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Anthropomorphism 擬人化

2016-0118-1

Anthropomorphism  擬人化。

長くてなかなか覚えられない単語。

去年、萌えガールズのキャラクターを付与された戦艦と、BL的なイケメンキャラの顔と人格を付与された日本刀をコレクションするというゲーム『艦これ』アンド『刀剣乱舞』の存在を知って、かなり動揺したのですが。

「擬人化」で検索してたら、Twitterをポニーテールのかわいい女の子として描くSNS擬人化マンガがあってびっくり。
ツイッターさん

…よく捉えてる。で、やっぱり無邪気なちっちゃい女の子なのね。
ドヤ顔の「フェイスブックさん」や自意識過剰な「スカイプさん」もでてきてかなり面白いです。

誰か、かわいい男の子の人格をもつ「ツイッターくん」マンガを描いてくれないかな。

と思ってたら今度はトヨタがプリウスの部品を萌えキャラに擬人化したコマーシャルを打つそうです。トヨタ……本当にそれでいいのか?プリウスのお客さんはそうなのか?

このような擬人化が自在にできるのというのは、マンガの持つカオス的なまでのパワーであることよ。と思います。

『艦これ』の擬人化は『きかんしゃトーマス』の擬人化とは次元が違う。

こういう高度な擬人化がさらっと自然にできてしまうメディアって、マンガをおいてほかにちょっとあんまりないのでは。

マンガの一ジャンルである風刺画で国家や政党なんかを擬人化したものはよくあるけれど、あれはドラマではなくて状況を描写しているものだ。

あとはApple のMicrosoft君をおちょくったCMくらい。

戦艦を女の子に擬人化して、しかもそれをストーリー仕立てのゲームでコレクションするという発想は、日本人の持つ特殊な能力というか病というかどっちかわからないけど、あまりほかにない文化には違いないと思います。

それはきっと、吉原と密接に関わりながら育ってきた浮世絵から受け継がれたマンガが育んだ感性。病んでいるといえば、まあきっと病んでいるのだろうけど、異常なまでに洗練されてもいる。西洋のヒト対ヒト、そして神対ヒトの相対する文化とはやっぱちょっとあり方が違う。

田中優子さんのめちゃくちゃ面白い『江戸はネットワーク』という本に、山東京伝のメジャーデビュー作となった『御存知商売物』という黄表紙が紹介されてました。これは赤本、黒本、黄表紙というジャンルを擬人化したお話。黄表紙というのは「文字も絵も同等に共存」する新ジャンルだったという。これがマンガの祖先に違いないと思うのだけど、得意の擬人化はここからもうすでに始まってたんですね。
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Karma カルマ

2015-1213-1

先日ビジネス通訳をしていて「karma」という単語が登場しました。

Karma って、アメリカ人はわりによく使います。

自分の善い行いや悪い行いが、自分に返ってくる、という仏教の思想が、70年代あたりにニューエイジ方面から輸入されて、一般に根づいたんじゃないかと推測。

日本語では「カルマ」の一般的な訳語は「業」だと思いますが、「業」というとなんだか非常に重い内容になってしまいます。というのは、日本で一般に「業」とか「カルマ」というと、輪廻転生の前世での行いが現世に現れている、という思想。現世でやっちゃった何かによる罰であって、自分の意思では簡単に変えることのできない、宿命的な力(「因業」「宿業」)を指すようです。

でもアメリカ人が「karma」という時には、まずほとんどの場合は前世のことなんかじゃなくて「今ここ」での行いが将来もたらす影響、または数年前の行いがもたらした影響について語っています。

日本語の「業」がポジティブな意味で使われることはまったくないと思いますが、アメリカ人はとてもカジュアルに「good karma」(善いカルマ)という言葉も使います。

善いことをすれば善いことが、悪いことをすれば悪いことがいずれは自分に返ってくるよ、という、「自然法則」のようなものとして「カルマ」を捉えている人が多いようです。日本語の「業」よりも、「報い」という言葉のほうが意味は近いかな。

キリスト教国でのほうが、仏教国であるはずの日本よりも「カルマ」という言葉と考え方が日常に浸透してるのが面白いです。すごく乱暴な言い方ですが、キリストの教えにも親和性があって、アメリカ人の精神にしっくり受け入れられる考えだからじゃないかしらと思います。

Netflixの人気シリーズ『House of Cards』(邦題は「ハウス・オブ・カード 野望の階段」)でも、ケヴィン・スペイシーが演じるアンダーウッド議員が秘書に

「Do you believe in karma?」(君はカルマを信じるか?)(←うろ覚え)

と尋ねるシーンがありました。

自分たちの陰謀の予期せぬ巻き添えでシークレットサービスの1人が職を失いそうになった時のセリフ。
結局、アンダーウッド議員はその上司に口をきいてクビにならずに済むようにしてあげます。

見捨てておくと「bad karma」(悪いカルマ)になって、いずれ自分の損害になるかもしれないというわけです。

まるで善い行いを市場で取引するみたいな現金な考え方ではありますが、それで世の中がうまくまわるなら、自分のカルマを意識するのは善いことですよね。

特に企業には、カルマについてぜひ積極的に考えてもらいたいものです。

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Zombie Apocalypse ゾンビの世界

2015-0527-1

 

「Zompie Apocalypse」というのは、テレビや映画やビデオゲームのジャンルのひとつとして確立してます。

ある日突然世界にゾンビが発生し、恐ろしい勢いで、着実に世界はゾンビに呑み込まれていく。そうして見慣れた日常がすっかりゾンビのものになってしまう。

日本版のウィキペディアにも「ゾンビによる世界の終末」という記事がありました。(なぜか英語版には「ゾンビ」の項はあっても「ゾンビ・アポカリプス」の項はありません)

以下、ウィキから引用。
<人類に敵対的なゾンビが広範囲に(時には全地球的な規模で)出現し、文明がその脅威に曝されるというシナリオである。多くの場合、ゾンビの攻撃を受けた者もゾンビ化(感染)するため、数量は指数関数的に拡大していき、通常の軍事組織や治安維持組織が持つ掃討能力を圧倒する大発生が伝染病のように発生、結果として文明社会は孤立した僅かな生存者を残す程度にまで一挙に崩壊する。この突然放り込まれた四面楚歌の状況の中で、生存者たちは食料や必需品を手に入れるために知恵を絞りつつ、人類の命運を賭けて奮闘することとなる。>

ゾンビで怖いのは、噛まれた人もすぐにゾンビになってしまうということです。
噛まれてしまったが最後、それまで共に戦っていた人も、お母さんも娘も、みんな人を喰うことしか考えない恐ろしいゾンビになってしまい、もう自分を覚えていてはくれません。なんと悲しいことでしょうか。

なんといってもこのシナリオを真に迫る痛切なリアリティで描いているのが、テレビシリーズの『Walking Dead』。(この番組では「ゾンビ」という言葉は使ってませんが)。舞台はアトランタで、もうすっかり世界がゾンビに呑み込まれてからドラマが始まり、生き残った人びとの間にメロドラマがあり確執がありという実に息苦しいドラマです。

Netflixで全話ストリーミング公開中なのでついうっかりと見てしまうのですが、これを寝る前に見るとかなりの高確率でゾンビに追われる辛い夢を見るため、体調の悪い時には見ないようにしています。今シーズン2の途中まで見たところ。なかなか先を見る勇気がわかない。
最近知ったのですが、これって『ショーシャンクの空に』の監督が製作総指揮をとってるんですね。これでもか~、これでもか~、という苦しみが続く話だってところが共通してますね。最後が『ショーシャンクの空に』みたいなハッピーエンドだといいんですが。

ちょっと前には『ゾンビランド』というおバカな映画もありました。ビル・マーレーが気の毒でした。

ゾンビ的世界のビデオゲームをやっている人を見ると、まったく何の呵責も感じずに頭をぶち抜くことができるという点でゾンビというのはエイリアンと同様、なんと都合の良い存在であることか、と思うのですが、でも、周りの人びとがある日、急に話が通じず理解も及ばない凶暴な存在になって自分を追いはじめ、それまでの日常が一気に崩壊してしまい、頼りになるはずの政府も警察も軍隊も、友人も会社も家族さえ、何ひとつ信じられなくなる、というのはある意味エイリアンの襲撃なんかよりもずっと恐ろしい。心の底を冷たい手で撫でられるような恐怖感を催させるシナリオです。

「zombie apocalypse」でグーグル検索すると1400万件以上ヒット、「zombie apocalypse survival」で200万件ヒットするというのを見ても、どれだけ皆がゾンビに頭の片隅を占領されているかがわかるというものです。

ヒットする中には、「ゾンビが発生した際にもっとも致死率が高い州と生き延びる確率が高い州」(「歩行者に優しい(walkable) 」町で金物屋が少ないとゾンビには耐性が低いようです)とか、ゾンビに備えてこれだけは用意しておきたい装備とか、ゾンビについて考察している人が多いのに驚きます。

この現象をきっと社会学のほうで論じてる人もいるんだろうなーと思ったら、やっぱりいた。
タフツ大学のDaniel Dreznerという教授が「国際政治とゾンビ論」という本を書いてらっしゃるそうです。

この本は読んでませんが、MotherboardにDrezner教授に話を聞いて書かれた記事があり、それによると、グーグル検索のトレンドでも「ゾンビ・アポカリプス」という語での検索が2009年頃から急激に増加しているんだそうです。
やっぱり、最近どうもゾンビゾンビってよく目にするって気がしてたのは、気のせいじゃなかったんですね。

この教授は、ゾンビへの関心は「先行き不透明な時代に増え、2009年の金融危機も影響している」といい、「Zombie logic (ゾンビ的論理)」は人間不信を高め、「人間のすることはいつかとんでもない事態を招くに違いない」という不信を蔓延させる、と警鐘を鳴らしています。
(記事の真ん中は今シーズンのWalking Dead のネタバレっぽかったので飛ばして読んだため、肝心なところが読めませんでしたが)
要するに、不安だからといって、周りが皆敵になってしまうゾンビの世界に頭を占領されていては、ますます袋小路にハマってしまうではないか、という主張のようです。

終わったのかどうかわからない永遠に続きそうな戦争、世界中にはびこる悪意、特にアメリカ人に向けられる敵意、所得の格差、貧困、イデオロギーの対立、疫病、環境破壊、経済危機。
どれをとっても解決できそうな糸口さえなくて、ニュースを真面目に見ていたらあっという間に神経衰弱になりそうな毎日。

不安が不安を増幅させる、というのはあるかもしれないけど、これだけ材料が揃えば不安になるのは当たり前、というだけではなくて、まだまだこれから本当にわけのわからない世界が出現するかもしれない、しそうだ、いやするに違いない、という漠然とした不安を感じる人が多いということなんでしょう。

19世紀末や20世紀始めにムンクや象徴派の画家たちが描いたような不安が、いまの世の中にはメタンガスのようにただよっているのかもしれません。

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Redemption 贖い

2015-0521-1

 

先日、めずらしく封切り館に映画を観に行きました。何を観たかというと、なぜか『MAD MAX Fury Road』(邦題『マッド・マックス 怒りのデスロード』笑)。予告編を見てこれはもしかしたら期待できるかも、と思ったんですが、あまりにも怒りのデスロードでのカーチェイスがえんえんと続くので、おばちゃんちょっと疲れたわ。
ていうかこの邦題を知ってたら行ってなかったかも(笑)。もう何でもかんでもてんこ盛りの凶悪な集団のビジュアルは、元気の良いデスメタルバンドみたいで面白かったですが。

ボウズ頭で片腕の戦士フュリオーサを演じるシャーリーズ・セロンが坊主頭にもかかわらず美しかったです。きれいな人はどんなになっても美しい。
幼いころに凶悪な集団に誘拐されて、数十年後に凶悪な集団の主のハーレムの妻たちとともに砂漠を横断して祖国への帰還を試みる「フュリオーサ」という女の役でした。

カーチェイスで追われまくり、ボロボロになった旅路の果てに、どうしてキミはこの危険な旅に出たんだ、と聞かれて、この「フュリオーサ」は

「Redemption」

と答えます。映画の中ではこれは違和感ありすぎの言葉でした。幼いときからこの凶悪な世界で育ってこの言葉は出てこないだろうと思った。この映画に真面目にツッコミを入れるのもどうかと思いますが。

でも、これって、欧米の観客には、すっと胸に落ちる言葉なんだろう、とも思いました。

Redemption。
「ランダムハウス英和辞典」では「(約束の)履行/(身代金などの支払いによる)救出/(キリストの犠牲による)罪の贖い、贖罪、救済、救い/(犯罪に対する)償い、贖い/(抵当、手形、債券などの)弁済、償還、償却/(質などの)取り戻し、請け出し」とあります。

日本語でこのフュリオーサのセリフはなんと訳されるのでしょうか。
「あがない」では、日本の観客にはちょっとピンと来ないんじゃないだろうか。

ティム・ロビンスとモーガン・フリーマンの共演した刑務所映画『ショーシャンクの空に』の原題は、『The Shawshank Redemption』。
無実の罪で刑務所に入れられ、横暴な所長の下で20年間も我慢し続けた銀行家が、最後にものすごーーいredemption を得るというお話。長い長い絶望的な刑務所生活がリアリティたっぷりにきめ細かく描かれたあとの、オチのカタルシスがたまらない映画で、ハッピーエンドの映画ベスト100というのがあったら必ず上位にランクインすると思う。

これも、『ショーシャンクのあがない』では、やはり日本語としてredemption のイメージがわかないですよね。

「Redemption」という言葉には、ランダムハウスに並んだ訳語をざっと見ても、「なにかの約束や契約で対価ががっちりと決まっていて、それが履行される」という意味と、「罪が許される」という意味が同居しています。
単に契約どおりのものを返すとか支払うとかではない「贖い」の背景には、やはりキリストの死をもって人類の罪を贖うという救済の物語があるのだと思う。
十字架による贖い、あるいは、それ以前のユダヤ教の、祭壇に捧げる犠牲による贖い。
この言葉には、神という圧倒的な力と向き合うという体験が含まれているといっていいと思います。

「Redemption 」にある感覚は、その圧倒的なボリューム感なのだと思います。

ひと一人分の人生に値するくらいの経験と時間を、あるいは命を、何かと引き換えにする、というときに使われる言葉。ビール代の5ドル貸してあげたのを返すのとはちがう。

それで日本語にそういう言葉はないかというと、もちろん償還とか贖いとかの言葉はあるけど、日常生活ではぜんぜん使われない。圧倒的な体験や命と引き換えに何かを得るとか、犠牲により何かを救済するというコンセプトが、欧米の文化では普段の生活の中にも漠然と根を張っているといってもいいんじゃないかな、それはやっぱりキリスト教の救済のコンセプトと強い関係があるのじゃないか、と、『怒りのデスロード』を見て考えたのでした。

そして思ったのが、日本には「水に流す」という言葉があるけれど、これは「redemption」のある意味真逆にあるコンセプトではないでしょうか。これは一体どこから来たのか。

なぜ日本では日常生活に「贖い」が意識されないのでしょう。「仕返し」はあっても、罪を償却する「あがない」って見当たらない。
多分神道には、そういう何かをもって罪やなにかを贖うという考えがあった/あるのだと思うけど、ていうか、太宰府とか東郷神社とか、ヒトのために神社を建てちゃうっていうコンセプトそのものが「贖い」の手続きなのかもしれないですね。

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