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Authenticity 自分らしさ

今は「Authenticity(オーセンティシティ)の時代」なのだそうだ。

アメリカで暮らしているとオーセンティシティという言葉をよく読んだり聞いたりする。
特にここ数年、よく耳につくようになった気がする。

オーセンティシティは、

「真実であること」
「ほんものであること」

という意味だが、人や企業などについていうときには、

「自分らしい」「飾っていない」「真摯である」「ブレていない」

という意味で使われる。

マーケティングの世界でも、企業には顧客との関係において、小手先ではないオーセンティシティが求められているのだという。

『Forbes』のオンライン版に、ジョシュ・オンさんというマーケティングの専門家が「The Age of Authenticity: Why Spin is Dead(オーセンティシティの時代:なぜSPINは過去のものになったか)」という記事を書いていた。

オンさんはここで、乗客引きずり下ろし事件後のユナイテッド航空の対応や、プロテストをものすごく適当なアプローチで取り上げて大炎上したペプシのCMなどを最近の失敗例として挙げ、仮にもブランディングを試みるなら、企業はその中心にオーセンティシティを持たなければ話にならない、と主張する。

(以下引用、拙訳)
<オーセンティシティ(または、少なくとも見た目のオーセンティシティ)は、今やブランドにとって必須の要素となった。オーセンティシティは、その会社が危機的状況にどのように対処するかという方法にとどまらず、そのブランドが顧客との間に持つあらゆるやり取りを下支えするものでなければならない。ブランドは、真実のストーリーを語り、そのブランドを取り巻く環境、ブランドのビジョン、そして現在の市場での役割までを含めたスケールで、そのストーリーを捉えることを学ぶ必要がある>
(引用終わり)

…とオンさんは言う。つまり、ほんとうのことを言っている、信頼できる会社だと消費者に信じてもらうためには、会社のあらゆる言動が、その会社が掲げているビジョンやストーリーに矛盾していないかどうかに自覚的でなければならない、というのだ。

これだけ「オーセンティシティ」が強調される世の中になった理由のひとつは、みんなが生活の大きな部分をインターネットに頼るようになったこともあると思う。

何もかもネットで瞬時に「知る」ことができるようになった反面、その情報のうち何がフェイクで何がホンモノなのか見分けがつきにくくなっている。
それだけに、みんな、フェイクな匂いのするものには敏感になっていて、特に若者は企業のウソや作り込みや欺瞞にはものすごく敏感に反応する。

ウソや借りものの整合性は、情報が多くなればなるほどボロが出やすい。

ほんとうの整合性はナマの真実にしかなく、小手先で繕えるものではない、ということなんだろう。

現在のアメリカは、企業も個人も「率直で信頼できる」キャラクターであることが望ましく、そうであるためには大事なことを包み隠さずに胸をはって世界にさらすのがたったひとつのただしいやり方、というのが時代の方向なのだ。

一方で、『ハーバード・ビジネス・レビュー』日本語版(2015年7月)のコラム「『自分らしさ』に潜むパラドックス」で、INSEADのハーミニア・イバーラ教授が、このアメリカ式のオーセンティシティはあまりにも型にはまったものになっていると指摘している。つまり、「自分らしさ」の主張がステレオタイプ化しているというのだ。

イバーラ教授は、
「自分らしさを貫くこと自体が1つのパフォーマンスとなり、右に倣えの行為となっている」
として、北米の上級幹部たちによるスピーチの典型を例に上げる。

(以下引用)
<近年では個人的な話が多く盛り込まれ、かつ綿密に構成されるようになった。冒頭ではたいてい自身のエピソードが語られる。幹部としてのあり方を試された困難や、リーダーシップの信条の元となった試練などが模範的な例だ。そこから「私が学んだこと」へと続き、自分らしくあることの大切さが述べられる。ユーモアと自嘲を交えながら話すのが定石だ。プレゼン全体のトーンは形式張らず自然体だが、内容は細部まで綿密に練られている>
(引用終わり)

わかる! これは、ビジネスから大学からエンターテイメントまで、どんな分野でも、アメリカの「できる人」に求められるコミュニケーションのあり方といって間違いないと思う。

「自己開示、謙遜、逆境を克服した個人的経験など」を含む、オーセンティック・リーダーシップに必要とされているひな形は「非常にアメリカ的」だと教授は指摘し、ある時北京のカンファレンスで聴いた中国人CEOによる講演がこうしたパターンとは全く違っていて、個人的なエピソードも価値観も含まれていなかったことに強い印象を受けた、と言う。

そして、オーセンティシティがリーダーの要件のひとつになるというのは、それが本来は同質化からの脱却を目指していたことを考えると、皮肉なことだと結んでいる。なるほど。

うーん、でもオーセンティシティを求めることってほんとうに「同質化」なんだろうか?

言論統制が行われている中国で、企業の上級幹部が公の場で個人的な経験や価値観を前面に押し出さないであろうことは納得できる。そりゃオーセンティシティとは正反対のプレゼンテーションになることだろう。

でも日本ではどうなのだろうか?

根拠はあまりないのだけど、日本の人がオーセンティシティを求める度合いは、アメリカと中国の真ん中のどこかじゃないかという気がする。

「オーセンティシティ」はとても翻訳しづらい言葉だ。
日本語には完全に同じ概念がないのだ。

「本物らしさ」「自分らしさ」だけでは足りないことが多い。
「自分らしさ」を充分に自覚して、それを体現していること、という意味を含むからだ。

とはいえ、アメリカ人が「オーセンティシティ」というときのニュアンスにいまいち統一感がない気がするな、と思っていたら、ニューヨーク・タイムズに
Unless You’re Oprah, ‘Be Yourself’ Is Terrible Advice
(あなたがオプラでない限り、『あなた自身であれ』というのはとんでもないアドバイスだ)」
というコラムをみつけた。2016年6月の記事で、ペンシルバニア大学のアダム・グラントさんという心理学の教授が書いたもの。

(以下引用、拙訳)
<私たちは「オーセンティシティの時代」を生きている。人生や恋愛や仕事についてのアドバイスでは、「あなた自身でありなさい」というのが定石だ。オーセンティシティというのは、あなたが自分の中で強く信じていることと、外側に見せる事柄の間のギャップをなくすことだ。ヒューストン大学のブレネー・ブラウン教授が定義しているとおり、オーセンティシティとは「あなたの本当の姿を見せるという選択」なのである>
(引用終わり)

そして、多くの人にとって「あなた自身であれ」というのはひどいアドバイスだ、と続ける。なぜなら、自分が抱えている本当の考えというのは、外に見せるべきものではないからだ、という。

グラント教授はさらに、A・J・ジェイコブスさんという作家による、心に浮かぶことをなんでも実行してみて「真にオーセンティックな自分になってみる実験」を例にひいて、オーセンティックとは恐ろしいものだ、というのだ。

とはいってもこのジェイコブスさんは幸い極悪人ではなく、「真にオーセンティックな」行動はわりとかわいいものだった。

知り合いの女の子に、妻がいなければデートに誘うんだけどな、と言ってみたり、親戚との会話中に「あんたの話はつまんないね」と正直に言ったり、手のひらに虫を載せている5歳の女の子に「その虫はお昼寝してるんじゃなくて死んでるんだよ」と教えてあげたり………。

そしてその実験により、ジェイコブスさんは「嘘がなければ結婚生活も世の中も成り立たない」という結論に達したのだとか。

グラント教授は、人にはセルフモニタリングが高い人と低い人がおり、高い人は常に周囲の環境を精査して、その場にふさわしい行動をしようと心がける、と語る。低い人はより「オーセンティック」である傾向が高いといえるが、モニタリングが高い人は社会的に成功している確率が高い、とも。そして、固まった「真の自分」がいるという頑なな思い込みは害になると警告し、「オーセンティシティ」の代わりに「誠実さ」を目指すべきだと説く。

「他の人に自分をどのように見せたいか」ということに注意を向けて、その方向に向かって変わっていこうとするほうが良い、というのが教授の主旨だ。

私はこの記事を読んで、違和感を持った。
ん? そうなん? オーセンティシティや自分らしさって「やりたい放題」とは違うんでないの?「何になりたいか」まで含めてが「自分らしさ」じゃないの?
…と思ったら、やはり反論も出ていた。

グラント教授のコラムが出てすぐ3日後にハフィントンポストに掲載されたアイラ・イズラエルさんというサイコセラピストの人の記事「What is Authenticity? (オーセンティシティとは何か?)」。わたしはこっちの方が納得できた。

イズラエルさんは、まず、グラントさんが定義しているのは「オーセンティシティ」ではなくて「自己一致」であり、「オーセンティシティ」は、自分が外の世界に見せているペルソナとは矛盾することもある、という。

そして面白いことに、この最近流行りの「オーセンティシティ」も、「マインドフルネス」も「コンパッション」も、みな、ここ半世紀の間に米国で広まってきた仏教哲学の流れを汲む考え方だと指摘しているのだ。そして、心理学者は西洋式の科学の手法を適用するために実験や数量化をしようとするが、そういう実験はそもそもこのような考え方にはなじまないのだと、イズラエルさんは主張する。

ジェイコブスさんの実験も、イズラエルさんは「オーセンティシティとは何の関係もない」とばっさり。

人の頭には1日に平均5万から9万の考えが浮かぶもので、それを口に出したり実行することが「オーセンティシティ」なら、刑務所がいくつあっても足りなくなる、ともイズラエルさんは言っている。

そうなのか、米国人の心理方面の専門家の間でも「オーセンティシティ」とは何かについてこんなに意見が違うものなのか、というのがまず面白かった。

そして、こういう考え方は1950年代以降の東洋哲学の流れを汲むものだといわれてみれば、なるほど、と納得できる。

そうだった。

アメリカも半世紀前までは、「自分らしさ」を主張して良い社会ではなかったんだった。

1960年代までのアメリカは、男らしさ、女らしさ、良い父親らしさ、良い母親らしさ、良い子どもらしさ、白人らしさ、黒人らしさなどなどの縛りが世間を硬く覆っていた。南部だけでなく北部でも非白人がいて良い場所といけない場所が法律や暗黙の了解で決められていたし、女性が就ける職業も限られていた。

マイノリティ、女性、障がいを持つ人、同性愛者など、きわめて限定された居場所を無理やりに押しつけられてきた立場の人々が半世紀以上闘い続けた結果、アメリカ人は、「オーセンティシティの時代」にやっとたどり着いたのだった。

そして、それまでの規範がもう役に立たなくなってしまったあとで、途方にくれた人々が考え方のよすがとして発見したのが仏教などの東洋哲学だった。

アメリカの東洋思想というとお手軽な東洋カブレとしてバカにされがちだけど、ビート・ジェネレーションに遡るその体験は切実なものだった。それは連綿と受け継がれてアメリカ文化に深く根を張り、一般の人々の「自分らしさ」についての考え方にまで影響している。

それで、日本は?というと、前述したように、私の印象では日本はアメリカと中国の真ん中へんにいるような気がする。

戦時中のような、正解をはみ出すと罰せられるという言論統制はなくなった。

露骨なお仕着せも減った。「こういう人はこう生きなければならない、こういう場ではこうでなければならない」というガチガチのキマリ社会でもなくなってきているようだ。

でも、学校や会社やエンターテイメントまで含め、あらゆる場所で「オーセンティシティ」「あなたらしさ」「自分らしさ」の発露が求められている社会でもない、のではないだろうか。

オーセンティシティを大切にする社会が人類文明の究極の形だなんていうつもりもないが、個人の幸せと自由・博愛・平等の可能性を追求していくと、結局そういうことになるんじゃないかという気がする。

日本では、まだ「場のキマリ」の引力のほうが、「自分らしさ」を求める引力よりもずっと強いように見える。場のキマリは多方面で崩壊しつつあるようだけれど。

「自分らしくあれ」というのは、確かにひどいアドバイスかもしれない。
まず自分らしさとは何かの確認からはじめなくてはならないし、それはあんまり簡単なことではない。ひょっとすると、グラント教授が危惧するように、固定した自分自身を表現しなくてはならないと思い込んでしまい、妙な自分探しの強迫観念の中に迷い込んでしまう人もいるかもしれない。

でも結局のところ、グラント教授のいう「なりたい人を目指そう」というのと、オーセンティックであるというのは同じことだと思う。

「なりたい人」像なり行きたい場所がはっきりと自覚できたときに、はじめて自分という整合性のあるストーリーが完成するからだ。というか、何がしたいのか、どういう人でありたいのかという欲望を見つめること以外に「自分らしさ」に近づく方法はないと思う。

これからの日本がどんなふうにオーセンティシティに向かっていくのか、向かわないのか、回り道をするのか、それがどんなキーワードで語られていくのか、大変興味深い。

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Walkable town 歩ける町

シアトルは全米で8番目に「walkable」 な都市なのだそうだ。

Walkable(ウォーカブル)とは、そのまんま、「歩ける」「歩きやすい」ということ。

たぶん、「ある町がwalkableであるかどうか」つまり「歩きやすい町であるかどうか」がどうしてそんなに良いことなのかは、アメリカの郊外や地方都市に行ったことがないと、ピンとこないのではないかと思う。

アメリカの郊外住宅地や地方都市って、「歩くこと」をまったく念頭に入れずに造られているのだ。

通勤も、買い物も、子どもの学校への送り迎えも、家の真ん前に停めた車を使って行くのが当然。だから歩ける距離には何がある、という発想自体がない。学校もスーパーも、クルマで何分という距離感でのみ把握されている。

最初にアメリカの町がいかに歩けない町なのかをつくづく思い知らされたのは、もう20年以上前、元旦那の実家であるルイジアナのシュリーヴポートという小都市に行ったときだった。

そのころうちの息子はまだ1歳半だった。普通の日本人の感覚で、ベビーカーを押してその辺を散歩しようと思ったら、家のすぐ目の前の大きな道路には、歩道というものが存在していなかった。

片側3車線くらいある幹線道路ではあるけれど、別にクルマ専用の高速道路ではなくて、ふつうの州道だった。

歩いて15分くらいの距離に公園があるのに、そこまで歩いていくという発想は誰も持ってないのだ。

道路はやたら無駄に広くて、横断歩道とか歩道橋なんてものもついてないから、どこまで行っても渡れない。だいいち、昼間でも道を歩いている人がいない。いるとすれば昼間から酒の匂いをさせてフラフラしてるような相当ヤバい感じの人だけ。

この国では散歩というのはクルマで行ってするものなのか、と衝撃を受けたのだった。

日本の地方都市もクルマがないと生活できないよ、というけれど、いくらなんでも最初から歩道がまったくないってことはないのでは?

Walkableな都市のランキングを作っているのは、「WALKSCORE」というサイト。

都市名を入れるとその場所がどのくらいwalkableかというスコアが出てくる。公共交通機関がどのくらい使いやすいかを示す「交通スコア」と、自転車道や自転車ラックなどが整備されているなど、自転車に乗りやすい環境が整っているかどうかの「自転車スコア」もある。

全米8位のシアトルのスコアは73点。シュリーヴポートは32点だった。

もっともwalkableな都市はニューヨークで、89点。その次がサンフランシスコ、ボストン、マイアミ、フィラデルフィア、シカゴ、ワシントンDC、シアトル、オークランド、ロングビーチとなっている。

このサイトでは、「歩ける町」になるための必須要件として、以下のポイントを挙げている。
•    メインストリートや公共スペースなど、人が集まる「中心」があること。
•    商店や公共交通機関が発達できるだけの人口があること。
•    多様な所得の層が住めるリーズナブルな家賃の住宅があり、ビジネスと住宅がほど良く入り混じっていること。
•    公園や公共施設が充分な数だけあること。
•    クルマよりも歩行者を優先したデザインであること。たとえば、ビルの前に駐車場がでーんとあるのでなく、入り口が道に面していて、駐車場は奥のほうにあるなど。
•    学校やオフィスが町の中にあり、住民の多くが歩いて学校や仕事に行けること。
•    道路が自転車、歩行者、公共交通のためにデザインされていること。

つまり単に歩ける、というだけでなくて「歩きたくなる」町でもあるわけだ。

都市プランナーのジェフ・スペック氏も、「The walkable city」というTEDトークで、アメリカ郊外の住宅街設計を「史上最悪のアイデア」とけなしつつ、クルマ用の道路に投資する代わりに70年代から自転車用のインフラと公共交通機関を充実させてきたオレゴンのポートランドをほめたたえている。

歩ける都市には高学歴の若い人が住みたがるから土地の価値も上がるし、良いビジネスも集まってくる。歩ける町はサステナブルであることと住みたいと思わせる魅力を持つことを兼ね備えている。

歩ける都市では人々が歩くから肥満率も少なく、通勤に時間やお金をかける代わりにほかのレクリエーションに回せるし、いいことずくめ、というのがスペック氏の主張。

都市であれば必ずwalkableであるとは限らず、設計によるのだ、とも言っている。

これはwalkability推進派が共通していうことで、WALKSCOREも「歩ける町の住民は肥満が少ない」というデータを掲載している。

WALKSCOREのデータは不動産紹介サイトRedfinの物件紹介のページにも掲載されるようになった。

「歩ける町」度が上がると不動産の値段も比例して上がるというデータも、実際に確認されているそうだ。

徒歩と公共交通機関を使って安全にすべての用事をすませられる町というのがどれほど恵まれた環境なのかなんて、日本にいたときには考えてもみなかったけど、アメリカでは残念ながらいまのところ、それはごく一部の都市にしかない贅沢なのだ。

 

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お茶の子さいさい

「簡単にできる」ということを、「お茶の子さいさい」という。

語源辞典」によると、
<「お茶の子」とはお茶に添えて出される菓子のことで、簡単に食べられることから簡単にできるたとえとなった>

とありますが!

これって、英語の「A piece of cake」ってイディオムとまったく同じじゃん!
ということに初めて気づいた。
「a piece of cake」も、「ケーキを食べるくらい簡単」って意味で、「お茶の子さいさい」以上にとってもよく使われますが、単に偶然なのかしら?

日本語と英語でこれほどぴったり同じ意味の比喩はあまりないので、興奮してしまいました。

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いただきます

「いただきます」って英語でなんていうの?と、聞かれることがある。

Google先生に聞いてみると
「いただきます」=「Let’s eat」
と出て来る(笑)。

いや確かに、「ごはんを食べる前に言う言葉」という意味では合ってるけど。
しかしもちろん「Let’s eat(さあ食べよう!)」と「いただきます」は、それ以外のあらゆる意味で、イコールではない。

アメリカ人が食事のたびに「Let’s eat」と言っているかというと決してそうではない。
「Let’s eat!」をどんな場面で言うかというと、例えば人を招いた食事の席で、ご馳走がテーブルに揃ったとき。その家のホストが、テーブルに出すべきものが全部揃ったのに目を配って、「さあ食べましょう」と言う。当然ながら、招かれた側が言うことではない。

「Let’s eat!」には「さあどうぞ、遠慮なく食べてね」というほどの意味がこめられている。

「いただきます」とは立ち位置が正反対の言葉なのだ。

「英語にはこれ(いただきます)に相当する表現はないので、 “Let’s eat!” 「さぁ、食べよう!」と言いましょう」
…なんて書いてあるサイトがあったけど、たとえば食事に招かれた留学生がそこの家の人を差し置いて無理に「Let’s eat!」なんて言ったら、どうにもたまらないほど微笑ましくなっちゃいますよ。

「いただきます」を言わないと落ち着かないなら、日本語で堂々と言えばいいのだ。そこで「何を言ってるんだ?」と不思議がられたら、「日本では食事の前にこう言うのだ」と説明してあげればいい。

でも「それってどういう意味?」と聞かれて、答えられる人はどのくらいいるだろうか。

わたしは自分でご飯を作って一人で食べる時でも「いただきます」を言う。

長年にわたり、ごく漠然と、「いただきます」「ごちそうさま」は、食べものの恵みに感謝する簡易版お祈りのようなものだと解釈していた。自分が育てたわけでもない食べものが複雑な世の中をめぐって手に入ることへの感謝、ちょっと前まで生きていたもの(植物も含め)を栄養分として身体にもらうことへの感謝、味わえることへの感謝、など。

でもこれは共通の認識ではないことを最近知った。

下田美咲さんという若く可愛らしいお嬢さんが書いているコラムに「いただきますを言う人は何にも考えていない」という記事があって、「自分が料理を作る時は、1秒もムダにせずにあたたかく美味しいうちに食べてほしいから、そんな意味のない定型的なことを言ってる暇があったらさっさと食べるほうが、作った人に対する礼儀にかなっている」という主旨だった。

なるほどー!「いただきます」は単に作った人(やおごってくれた人)に対するお礼の挨拶だと思っている人もいるんだ!これはちょっと新鮮な驚きだった。

そうかと思えば、浄土真宗の僧侶である大來尚順さんという方が『東洋経済』書いているコラム「「いただきます」の日本語に隠された深い真意」には、

「本来「いただきます」の前には「いのちを」という言葉が隠されているのです。これを英語にすると「I take your life.」(私は「いのち」を奪う)となり、ストレートでわかりやすくなります。」

「この意味を踏まえると、まず「いただきます」と口にして思うべきことは、「申しわけない」という他のいのちへの懺悔(ざんげ)なのです。すると自ずと頭が下がります。そして、そこから感謝が生まれてくるのです。」

…と断言されている。

「いただきます」は料理を作った人やおごってくれた人にだけ向ける挨拶だと思っている人もいれば、「他のいのちへの懺悔」にまで思いを馳せている人もいる。

どっちかが正しいということはないと思うが、日本人の中でも「いただきます」について、こうまでとらえ方が違うのだ、とあらためて驚かされる。

日本人はずっと昔から「いただきます」「ごちそうさま」と言い続けてきたはずなのにこれほどコンセンサスがないとは不思議。…と思ったら、それも違った。

なんと、この習慣が全国に定着したのは昭和になってからという説が有力のようなのだ。知らなかった。

そういえば、明治や大正に書かれた小説の食事風景で誰かが「いただきます」と言っている場面を読んだことがない気がする。

ウィキペディアのリンクで篠賀大祐さんという方の『日本人はいつから「いただきます」するようになったのか』という電子書籍を見つけて、読んでみた。

短い本だが、「いただきます」と言う時に合掌する人が多い地域と少ない地域を比較した分布図も出ていて面白かった。

語源と歴史については、「いただきます」を飲食の意味で用いるのは狂言にも例があるので歴史は古いが、17世紀はじめ頃の日本語とポルトガルの辞書には「いただきます」の項に食事に関する挨拶の意味が載っていないことから、その当時には一般的な用法ではなかったと思われる、という主旨のことが書かれている。

著者の篠賀さんは、「いただきます」「ごちそうさま」には方言が存在しないということに注目して、したがってこの言葉はテレビや新聞ができてから全国にひろまったのではないか、と指摘している。これは鋭い視点だと思う。

さらに、柳田國男が昭和17年に書いた「最近はやたらにイタダクという言葉が乱用されているが、これはラジオの料理番組のせいであろう」という主旨の文章を引用して、やはり「いただきます」はこの文章が書かれた昭和17年頃に普及し始めたのだろう、と結論している。

また、昭和初期の調査で、調査対象となったすべての家庭が神棚や仏壇にご飯を供えていたという結果にもとづき、篠賀さんは「現在では仏壇や神棚の無い家も多くなっている。そのため、食前のお供えの風習が変化し、仏に対しての祈りの仕草である合掌が、食事の挨拶の仕草となったのではないだろうか」と書いている。

篠賀さんの言うように、「いただきます」「ごちそうさま」は、神仏に手を合わせる代わりの行動として根づいた習慣なのだろうか。
そうだとすれば、やはり、うっすらと、ではあっても「祈り」の性格をもった習慣だといえる。

でも考えてみれば奇妙なことに、「何に」手を合わせるのか、「誰に」言っているのかについて日本人の間にほとんど共通の認識がないし、意識している人も少ない。だから下田さんのようにあくまでも人対人の意味のない挨拶だと考える人もあるほど、自動的な言葉になっている。

わたし自身の考え方は僧侶の大來さんの主張に近い。「いただきます」は、生命を殺して食べるという行為を自覚して居ずまいを正したり、食べものが手にはいるということ、しかもおいしく食べられるということについて感謝したりするために使える便利な儀式であり、そうやって使えば世界一コンパクトな祈りにできる素晴らしい習慣だと個人的には思う。

「祈り」にはいろいろな力がある。本当にいろいろある。
真摯な祈りにはともかく確実に、人の意識と行動を変える力がある。

でも日本には意外と祈りの効用を知らない人が多いと思う。
神社仏閣が無数にあるのに、生活の中に祈りの習慣を持っている人はとても少ないし、「宗教っぽい」行為というだけで眉をひそめられるのがごく一般的な感覚ではないかと思う。

日本は明治から昭和の短期間に国家宗教を作り上げて、敗戦でそれを喪失した国だ。

日本の人の宗教に対する嫌悪感にちかい警戒心には、日露戦争から第二次大戦敗戦までの、爆進して玉砕した神国日本時代の記憶が少なからず関係しているのではないかと、私は思っている。

「いただきます」「ごちそうさま」が、その国家宗教の喪失と前後して全国の習慣になったということは、本当に興味深いと思う。

「いただきます」にはコンパクトな祈りになるパワーがある習慣だと思うけど、でももちろん、祈りというものは人に押し付けたりするべきたぐいのものではない。

篠賀さんの本には、移転先の地域の学校で、給食の時に合掌をさせられたのを宗教行為の強制だとして訴えた親子のエピソードも紹介されていた。

学校で合掌するように強制したりするのは、確かに止めたほうがいいと思う。
祈りも懺悔も感謝も、無理やりやらされても何の役にも立たない。

祈りが意味を持つのは、祈る人が心の底からその必要を感じたときだけだからだ。祈りの作法と必要性が統一されていた社会は、もう過去のものになってしまった。

「いただきます」「ごちそうさま」は、神様の存在があやふやな日本という国で、きっと生活の中の何かの必要を果たしている。それは人によって違うのだと思う。祈りなのかもしれないし、食べるという行為の落ち着かなさを緩和する合図なのかもしれない。
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Go-To

英語のいいまわしで「Go−to なになに」というのがある。

「とりあえずこれだけあれば大丈夫」というほど頼りになるモノや人や場所や音楽や食べものなどのこと。

He is my go-to friend.

This is my go-to bag.

Croissant is my go-to breakfast.

Pizza is my go-to comfort food.

のような言い方をよく聞く。

オンラインのケンブリッジ辞典には

used to describe the best person to deal with a particular problem or do a particular thing, or the best place to get a particular thing or service:

(特定の問題に対処したりある特定のことを行うのに最適の人、または何か特定のものやサービスを得るのに最適の場所をさす)

しちめんどくさい問題が発生したりピンチになったときにするすると問題を解決できる人、というイメージ。

たぶん、「人」から派生してモノのこともさすようになり、「とりあえずこれがあればなんとかなる」というようなモノやサービスのこともさすようになったのではないかと思う。

日本語でこれをうまく簡潔に言い表す単語が、ありそうでない。

「頼りになる」だけじゃちょっと意味が足りない。限定的だけれども絶大な力をもつもの、それがGo-toサムシング。そして「my go-to 」というとき、その対象との間には特殊な絆のようなものが発生している。

「ある一定の状況下で万能の力を発揮する、特別なもの」というような言葉が、なにか日本語になかったかしら。

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Sexy  セクシーな 

翻訳していて困る形容詞のひとつに「sexy」がある。

文字通りの性的魅力をさすのとは別に、「かっこいい」「イケてる」「魅力がある」といったような価値をあらわして、昨今ほとんどどんなものにも使われる。

この間翻訳した新しいレストランを紹介する記事で、内装が「tres sexy」という文章があった。有名シェフがプロデュースする店の洗練された都会的なインテリアの店内を「すごくsexy」といっているのである。

「超セクシーなレストラン」なんて日本語にしたら、違う分野のサービスを提供する店だと受け取られてしまう率が70%くらいなのではないか。
ここは悩んだ末、「目を奪われるほど麗しい」とした。ややひねりすぎではあるが、100%手放しで褒めてるというのではなく、0.05%くらいの毒気を含んだつもり。

『リーダーズ英和辞典』には
-a.性的魅力のある、色っぽい、セクシーな。性に取りつかれた。<広く>魅力的な、人目をひく、かっこいい
とある。

オンラインの『Oxford Living Dictionary』には
•    Sexually attractive or exciting. (性的魅力がある、エキサイティングである)
•    (informal) Very exciting or appealing.
(俗語)非常にエキサイティング、または惹きつける。

とあって、こんな例文がのっている。

‘business magazines might not seem like the sexiest career choice
「ビジネス雑誌での仕事というのは最高にsexyなキャリアとは思えなかったかもしれない」

‘The interesting thing is that sexy wines tend to come from certain grape varieties and wine growing areas.’
「興味深いことに、sexyなワインというのは特定の種類のブドウから出来、特定の産地で生産されるものだ」

‘Milgram was a whiz at devising sexy experiments, but barely interested in any theoretical basis for them.’
「ミルグラムはsexyな実験を考案することにかけては天才的ではあったが、その基礎となる理論については大した関心を持っていなかった」

この最後の例文がさしているのは、性的な行動についての実験ではない。電気ショックを与える係に任命された人が、閉鎖的状況で権威ある人に命じられると迷いながらも被験者に苦痛を与え続けてしまう場合がかなり多いという結果で世間に衝撃を与えた、有名な「ミルグラム実験」を考案したミルグラムさんをさしているのだと思われる。

今でも賛否両論あるこのひどい心理実験のどこがsexyだと言っているのかというと、誰にとっても分かりやすく簡単な仕掛けで、話題にしやすく、人の関心をひき、それまでの常識をくつがえす衝撃を与えたという点なのだろうと思う。
言い換えるなら「センセーショナルで洗練されている」といったところか。

英辞郎くんにも
〈話〉〔物事が新しくて〕格好いい、人目を引く
という説明があるが、うーん、ちょっと残念。
セクシーの魅力は「新しくて」ではないんだよね。格好いいのは確かだが、人目をひくだけではないのだ。

たとえば駅前に新築されたでっかいイオンが新しく人目をひいても、それがセクシーだとは限らない。たぶん違う。

その新しさがセクシーなら、そこには官能的な驚きと、欲望を刺激するという含みがある。
だから、たぶん少し毒がある。

sexyという形容詞は、とりもなおさず、男性もしくは女性の性的魅力に類似したような引力、ということだ。魅力的な人が放つ、異性も同性も有無をいわさず惹きつける力であって、そして同時に、少し浮わついたような、用心ならないようなところもある、というほのめかしがあると思う。
まったく毒気がないとか、100%の安全保証がついているとかのものは、たぶんセクシーではない。

Sexyなものは、きっと人の存在をどこかおびやかすような<キケンなかほり>を持っているのである。

たとえば上の例でいえば、「sexyな心理実験」というのは、手順が煩雑で説明するのにも時間がかかるけれども学問的に意味のある地味な実験、とは多分対極にあるのではないだろうか。

Googleが電子化した書籍に出てくる言葉の用例数をごっそり視覚化してくれるNgram Viewerで検索してみると、[sexy]の用例は1940年代から1960年代にかけてゆるやかに増え、1960年代以降、迷うことなく一直線に急上昇している。

ちょっと思いついて[cute]と比較検索してみた。

1960年代〜80年代に急激に[sexy]が追い上げ、[sexy]が[cute]を追い越すほどの勢いであったものの、70年代から急に[cute]も[sexy]と同じ上昇気流に乗り、後は双子の超優良銘柄のように[sexy]と足並みを揃えて上昇している。面白いー!

さらにここに[delightful][charming]という、19世紀の良家の子女のようなお行儀の良い褒め言葉を入れてみるとさらに面白い結果が。

[delightful][charming]は共に1930年頃から確実に凋落の道をたどっていたが、そろって2000年以降ゆるやかにまた上昇している。全体数では[sexy]と[cute]にまだ勝ってはいるものの、20世紀後半に急に追い上げたこの2つの単語との距離ははっきりと縮まって、いまやほとんど同じレベルにあるといっても良さそうだ。

この結果だけでもちろん言葉の用例がすべて代表されているわけではないし、重要性が計測できるわけでもないのだけれど、見事に世相を反映しているのは確か。

ロックンロールとミニスカートの1960年代以降、[sexy]について語る書籍が雨後のタケノコのごとく増えたのは当然だし。

女性は足首をみせることも許されず、もちろん性について公に語るのもタブーだったフロイトの時代から100年以上たち、いろんなフタが次々に外れて、それまでの社会にあったピューリタン的な縛りが消えてなくなるのと同時に、[sexy]は閉じ込められていた巣箱から飛び出したハトのように一直線に急上昇している。

アメリカでは、もはや[sexy]は社会通念上主要な価値観になってきている。[sexy]なものは明らかにパワーを持っているのだ。

それで、なぜこの言葉の翻訳に困るかというと、いつもいつも「魅力的」ではつまらないし、[sexy]が微量に含んでいるキケンなかほりとか毒をうまく表す日本語がなかなか見つからないからだ。

「婉然」とか「艶やか」などにはちょっと官能的なかほりがするけど、使える文脈は限られている。
今日流通している日本語の中に、 [sexy]にあたるような色っぽい便利な言葉がないのは、きっと社会が認める価値観が微妙にズレているからなのだと思う。

アメリカでの [sexy]という価値観が「ヘルシー」とか「ポジティブ」というのと同じように、ほぼ反論の余地なくあからさまに崇められているのに対して、日本では今のところ、 [sexy]は少なくとも表向き、まったく崇められていないような気がする。

性的な含みのある価値観は今のところの日本語界では文字通りイロモノ扱いで、少し遠くから慎重な距離をおいて、なにかあれば口の端に冷笑を浮かべる用意をしつつ見守られている感じである。
もちろんセクシーなるものに日本で需要がないわけではなくて、絶大な需要がありマーケットがあり百花繚乱なのはわかっているけど、その世界は日常生活とは距離があり壁があり、日常のほうからもあまり簡単に近づけないっぽいのだ。

では日本語界の「魅力的」というジャンルでどんな形容詞が権力を持っているかというと、それはきっとダントツで「かわいい」なのではないかと思う。
「カワイイ」には絶大なパワーがある。それは今の日本で売れている女優さんやアイドルたちをみれば一目瞭然だ。

そういえば、10年位前だったか、塩野七生さんが、日本の男優には大人の色気がないと嘆き、当時絶大な人気だったキムタクを見てなんと幼い顔だろうとおどろいた、というようなエッセイを読んだ覚えがある。その時はへーそういう感じ方もあるんだ、と思ったが、何世紀もの間ブレることなく色気至上の国であるイタリアから来た人には、その印象はまあ当然なのかもしれない。

なぜ日本ではカワイイのほうがセクシーよりも偉いのかについては、きっといろんな論があるのだろうけど、私は、江戸時代に町人文化の重要な部分を「悪所」である遊郭が担っていて、それが明治から昭和にかけて表向き徹底的に抑圧されたのが理由のひとつじゃないかとひそかに思っている。

江戸の町人の言葉の中には[sexy]に相当する単語が多かったんじゃないだろうか。「いなせ」とか「あだっぽい」とか。残念ながらそんなに翻訳には使えないけど。

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Desire あらまほしき(欲望)

2016-0928-1

「desire」という英単語をポジティブに日本語に訳すのが難しい。

たとえば高級リゾートホテルやスパの宣伝などにも、desireという言葉はさらっと使われていたりする。

これを

「あなたの欲望のすべてを満たす贅沢なスパ体験」

なんて日本語にしてしまったら、なんだかやたらにギラギラした、方向性の異なる施設のように聞こえてしまう。
この場合は「欲求」でも「願望」でも「希望」でも、ヘンである。

『リーダーズ英和辞典』の訳語は
(n)欲望、欲求、…心(欲)、好み、性欲、情欲、希望、願望、要求、要請、望みのもの。
この中では「望み」というのが一番穏当な日本語ではあるが、望みという言葉はお行儀がよくて、淡白でよそよそしい印象がある。
えーと、だめなら別にいいんですけど…と、最初から少しあきらめ気味な感じでもある。

その点desireは切実で、それが実現しないといてもたってもいられないのである。

そういえば中年以上の皆様にはなつかしい中森明菜のdesireには、「情熱」というサブタイトルがついていた。熱いのである。

desireの兄弟にgreedというのがある。
『リーダーズ』ではgreedは
1.    (特に富・利得に対する)意地汚い欲望、貪欲、強欲。2.食い意地、大食。
と説明されている。

Oxford英英辞典では
desireは
A strong feeling of wanting to have something or wishing for something to happen
(何かを手に入れたいと欲する、または何かが起こることを願う、強い感情)
とあり、
greedは
Intense and selfish desire for something, especially wealth, power, or food
(特に富や力、食物に対する烈しく、身勝手な欲望)
とある。

desireとgreedの違いは、「身勝手」であるかどうかのようだ。

自分やまわりを傷つけることに頓着せず、欲求だけに盲目になっている状態がgreed。
たとえば『千と千尋の神隠し』のカオナシは、迷えるgreedの権化でしたね。

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「おいしいご飯が食べたい」と心の底から願う気持ちがdesireであるのに対して、greedには、まわりの人が飢えていても自分の穀物倉に食料を貯め続けるとか、人の手からオニギリを奪って食べるとか、あるいはもうお腹がいっぱいなのに飽き足らずご馳走を目の間に並べてしまうとか、そういう前提がある。
desireが暴走した状態がgreedなのだといえる。

greed といえば、映画『ウォール街』(1987年)でマイケル・ダグラスが演じるゴードン・ゲッコーのセリフが有名だ。

The point is, ladies and gentleman, that greed — for lack of a better word — is good.  Greed is right.  Greed works.  Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit.  Greed, in all of its forms — greed for life, for money, for love, knowledge — has marked the upward surge of mankind.  And greed — you mark my words — will not only save Teldar Paper, but that other malfunctioning corporation called the USA.

「いいですか、皆さん。他にもっと良い言葉がないのでgreedと呼ぶが、greedは善いものです。greedは正しい。greedは物事をうまく回らせ、はっきりさせ、道を拓き、前進する精神のエッセンスを表している。あらゆる形のgreed、生命や金や愛や知識に対するgreedが、人類を進歩させてきたのです。Greedは、この会社を救うだけではなく、アメリカ合衆国という、この機能不全の組織をも救うのです」

この臆面もない欲望礼賛のスピーチは、観客をはっとさせ、この人物の狂気スレスレで回っている自信とパワーをものすごくよく代弁して、80年代映画を代表する名セリフの一つにもなった。

日本語字幕でこのgreedがどう訳されたのか気になるところ。「貪欲さ」かな。いずれにしても、greedというネガティブな言葉が表すところの、普通なら眉をひそめるべきなりふり構わない自分勝手で迷惑な力を全面的に肯定したところに、このセリフの破壊力があった。
オリバー・ストーン監督の意図とはうらはらに、ゲッコーに心酔してしまった観客も多かったという。

ゲッコーはもちろん、desireとgreedをすり替えている。
これがdesireだったらごく当たり前のスピーチであって、ちっとも衝撃的ではないのだ。

こうありたい、こうなりたい、もっと知りたい、もっと速く動きたい、もっと遠くへ行きたい、もっと美しくなりたい、もっと美しいものが作りたい、あの人と一緒にいたい、これが食べたい。生きていたい。…というような強い望みは、すべてdesireである。

desire は、人がなにかをする原動力だ。人間だけではなくて、どの生きものにも備わっている、根源的な力なのだと思う。
植物が土と水さえあれば根を張ってどんどん葉をのばしていくのをみていると、生命活動というのはすなわちdesireそのものなのだと思わされる。

Desireがgreedに変わるのは、リソースを奪い合う他の個体との軋轢による。
ほかの木を枯らしても自分の場所を確保しようとする植物は、人間の目に強欲にうつる。
たらふく食べたいという願望が心にあるだけの間は平和だが、一つしかないオニギリを飢えた子どもたちと分け合わねばならないとなったら、そこには人がgreedにおちいる舞台が用意されている。

西洋社会、とくにアメリカでは、明らかにgreed(強欲)に陥っていない限り、desire(素直な欲求、欲望、望み)はデフォルトで礼賛されている。
ゲッコーのスピーチのgreedをdesireに変えれば、たとえば教会の牧師さんが日曜の礼拝で言っても不思議ではない。
「わたしたちはこのように切実な願いを持っている。このdesireが神の目にかなうものなのであれば、神はわたしたちを祝福してくださるでしょう」
というように。

西へ西へと国土を広げてきたアメリカという国では、たぶんほかの西洋諸国よりもずっとこの傾向が強いのだ思う。
だだっ広い大平原に出かけていって家を建て、畑をつくり、街を築くには、強いdesireが必要だ。
それはもちろん、そこにもとから住んでいた先住民にとっては大変迷惑なことではあったが。
そのようにして道を切りひらき成功した人をアメリカは手放しで讃えるし、たぶん多くのアメリカ人にとっては「自分のしたいことを追求するあまりちょっとばかり人の迷惑になってる人」と「desireがないように見える人」を比べたら、ちょっとくらい迷惑である人のほうに強く共感できるのではないだろうか。
desireがないというのはつまり、ちゃんと生きていないということ、という考え方なのだ。

それに対して日本語では、desire的な状況がかなり蔑視されている気がする。

これには仏教と儒教の影響があるのだと思う。

この世の苦しみから自由になることにフォーカスしている仏教では、「欲」は基本、真実の平安へと至る道の障害物として取り扱われる。

儒教はよく知らないけど、たぶん個人の欲望とはあまり互換性がない教えではないかと思われる。

かといって日本にdesireのニーズがないわけではもちろんないので、そのニーズを受け止めてくれるのは八百万の神様たちであろう。

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苦しいときに救いを求めて祈る対象は仏でも、個人的なdesireを聞き届けてもらいたいと願う先は、あちらこちらの神社の神様や、あるいは仏教にとりこまれた眷属たちでなければならない。
仏様のところにそんな願いを持っていっても、「まだわかってないね。万物は空なのだよ」とやんわり諌められてしまうに違いない気がするからだ。

日本では長いこと、仏教と儒教と、あらゆる場所にいるいろいろな神様に役割分担がふられてきた。
Desire部門はおもに神様たちの担当だったけれど、そこに体系的な教義のバックアップはなくて、どちらかというとアドホック的なご担当だったと思う。

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権力を持つインテリ層のほとんどは仏教か儒教の勉強をしている人びとだったので、日本人の精神生活の中ではdesire的な状況は蔑まれる傾向にあったのではないか、なんて思う。欲などはしょせん知恵や修行の足りない大衆のものだったのだ。

庶民文化ではもちろん欲望が全開で花開いていたけれど、それも仏教や儒教が上に控えてフタをされていたために、ちょっと面白いねじ曲がり方をしてるんだと思う。日本文化の中にデフォルトで入っているホンネとタテマエのこの二重構造はとても面白い。

言葉は文化が作るもので、その中で生活する人びとはその文化と言葉の影響を受ける。
そして言葉は、何百世代にもわたって受け継がれている集合的な記憶と知識のあらわれでもある。

いまから千年後にまだ日本語を話す文化があれば、そこではdesire的な状況を示す日本語はもっと楽観的で気さくなものになっているような気がする。

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Engage エンゲージ 

2016-0909-1

語学学習者の中にはたまに、辞書に載っている訳語がその単語のすべてであって、言葉というものは地図の記号や化学式かなにかのようにゆるぎない「一対一対応」である、と思い込んでいるらしい人がいる。

もちろん、そんなことはない。

どんな国のどんな言葉も、単なる記号ではない。

言葉は文化であり、思想と感受性の反映であって、使う人あってのもの。
時代が変わり、生活と考えかた、ものの感じ方が変われば、当然言葉も変わる。

そして、その言葉が表す考え方、感じ方というのは、ほかの国の言葉にそっくりニュアンスを損なわずに移し替えるのが難しいことが、かなり多い。

辞書に載っている訳語は編纂した人びとが苦労して集めた「そっくりさん」たちなのだ。

日頃、英語と日本語の単語を相手にしていて、すっきり翻訳できる言葉や概念というのは、もしかして例外的なのではないかと思うこともある。

たとえば、とても翻訳しにくい言葉のひとつに「ENGAGE」というのがある。

日本語の中に入り込んでいる「エンゲージ」は「婚約」だけれど、それはこの言葉がもつ意味の中の、ほんの一部にすぎない。

「リーダーズ英和辞典」の訳語では、
(自動詞)
1.約束する、請け合う、保証する
2.従事する、携わる、乗り出す、参加する、関心をもつ、かかわる、交戦する
3.(歯車などが)掛かる、かみ合う、はいる、連動する
(他動詞)
1.         契約(約束)で束縛する、保証する、婚約させる、雇う、予約する
2.         従事させる、交戦する、(会話などに)引き込む、注意をひく、魅了する
…などがあがっている。
でも、ここに並んだ訳語を見ても、この言葉のイメージはつかみにくいのではないだろうか。

Google によると、engage の語源はフランス語で、もとは「なにかを担保に誓約する」という意味の単語だったそうだ。それが「契約」の意味を帯び、やがて「なにか、または誰かに深くかかわる」という意味になってきた、らしい。

いまのアメリカ英語では、「engage」はビジネスの場面でも、日常の場面でも、わりと頻繁に使われる。

会話にengage するといえば、スマホをいじったりせずに相手の言うことに注意と関心を向けて会話をする、ということ。

企業の多くが、社員がengageできる会社にすることを目標のひとつに掲げている。
仕事にengageしている社員とは、主体的に意欲を持って仕事に取り組み、会社の成功に対して当事者意識を持っている社員のこと。

engageは最近流行のマーケティング用語でもある。いかに多くの人に製品やブランドにengageしてもらうか、についてたくさん本が書かれている。
ブランドにengageするとは、そのブランドを自分の生活と価値観の延長として愛着を持つこと、を指す。

このマーケティング用語としてのengage/engagementという概念は、最近、日本でも「エンゲージメント」とカタカナ語になって輸入されている。

これらの文脈のengageとは、つまり、「主体的になにかの対象に意識を向け、働きかける」ということだ。

感覚としては「身を入れる」というのが近いのではないかと思うけど、「身を入れる」という言葉には、相手についての意識が低い。
engageには双方向の意識がはたらいている。
日本語には「engage」が表現する「歯車が噛みあうようにしっかり対象に向き合う/向き合わせる」をコンパクトに表す単語はない。

訳語としては、だから、その文脈によって「つながる」としたり「魅了する/される」「惹きつける」などいろいろひねり出したり、流行のマーケティング用語にならってカタカナを使ったりすることになる。

Google Ngram Viewerを見ると、19世紀初頭をピークに減っていた使用例が、60
年代からゆるやかに増え続けている傾向がわかる。

https://books.google.com/ngrams/graph?year_start=1800&year_end=2008&corpus=15&smoothing=7&case_insensitive=on&content=engage

20世紀後半、第二次大戦後に育った若者が大人になった頃から、アメリカ社会は激しく変わった。これは世界的な傾向ではあるけれど、とくにアメリカは、世界で最も豊かで最もひどい矛盾を内側に抱えた国家として、世界の中で真っ先に数々の大騒乱を巻き起こしてみせた。

公民権運動、反戦運動、東洋思想への傾倒、ウーマンリブ、フリーセックス、ドラッグ、ロックンロール、そして、やがてその後半世紀かけて人々の生活を完全に変えてしまう情報技術の台頭、経済の加速。

白人男性のエスタブリッシュメントたちが政治や経済を取り仕切っていた社会から、多様な背景・価値観・文化を持つ人々とつきあい、互いの価値を認めざるをえない社会へ。そして経済もテクノロジーもますます加速し、価値観が日々更新される目まぐるしい社会へ。アメリカは先頭をきって変わっていった。

Engage という単語は、そうした多様化しつつあらゆる面で加速する社会の中で個人に要求されている心の状態を、はからずも象徴しているように思える。

相手の注意をがっしりと捉える。意識を最大限に集中して主体的にその場に(あるいは人やモノに)向ける。

少し目を離しているとテクノロジーも政治も経済も社会の制度も常識も、どんどん変わっていってしまう。社会の中になにがしかの位置を占めたいなら、そのスピードについていかねばならない。

アメリカ企業のカルチャーの中では、常に変化についていくために、周囲のすべてに「エンゲージ」していることが要求される。

「Engage」は、1980年代後半からオンエアが始まった『新スタートレック』(原題は「スタートレック:ザ・ネクスト・ジェネレーション」)のピカード艦長のセリフとしても有名だ。

USSエンタープライズをワープ航法に切り替えて、光よりも速く移動する時に、ピカード艦長が全士官に出す命令が「エンゲージ」である。

この言葉の性格は、このピカード艦長の命令にとてもよく表れていると思う。

新時代には、みんなワープの速度で飛んでいかねばならないのだ。

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Reductionism 還元主義 

2016-0724-1

人間の知性や精神は、オーブントースターやクルマのメカニズムと同じように、小さな部品に分解していけるものなのだろうか?

「そんなものはできるに決まっている」とする考えかたを、還元主義(reductionism)という。

「還元主義」という日本語からはあまりピンと来ないけれど、reductionismという言葉には、なにもかもを単純な原理と単位にreduceしてしまう、つまり「矮小化する」「意味のないほど小さなものにしてしまう」というニュアンスがある。

どんなに複雑なシステムも、より単純なシステムに分解できる。というのが基本の考えで、もともとはデカルトさんが17世紀に書いた『方法序説』に端を発するといわれているそうだけど、現在ではこの言葉は自然科学から数学から社会学から、いろいろな分野で少しずつ違う理論に使われていてすごくややこしい。

ここでは社会学/神学/心理学に絞った話をすると、19世紀にダーウィンの進化論に刺激を受け、神とその原理という輝かしくて神聖なものと人間の絆を教えるキリスト教に対して、高らかに誇らしげに「そんなもんねえんだよー!」と宣言したのがreductionismの人々なのである。

夢判断のフロイトさんもその先鋒。精神病理は抑圧された欲望の引き起こしたものだという思想をさらに宗教全般に当てはめて、その著書『トーテムとタブー』で、宗教や芸術の起源はエディプス・コンプレックスだと言い切っている。つまり、宗教というのは病にすぎないと。

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こんな「還元主義」に対して、もちろん、聖なるものを信じる側の人々は激しい批判を展開してきた。

多分、宗教学や心理学方面の分野で「還元主義」という言葉が使われるようになったのは、人間の精神世界をreduce(矮小化)することを批判する立場からなのだと思う。

GoogleのNgram Viewerによると、reductionismという語の用例が急激に増えたのは1960年代以降で、1940年まではほとんど使用例がない。

宗教学者のエリアーデが反還元主義の代表選手だったし、『夜と霧』で有名な心理学者フランクルも、還元主義はニヒリズムを生むと批判している。

還元主義というのは、対立する立場の人びとからすれば「レイシズム」並みに忌むべき考えかただと言っていい。

ただし、レイシズムと違うのは、批判されている側が、その考えかたこそ人類の持つべき態度だと思っていること。まったく平行線なのだ。

フロイトさんたち還元主義の人々の主張は、単に自然科学の視点からこの結果が導き出されたという淡々としたものにとどまらず、それまでの教会の教えに基づく権威に対する、悪意といってもいいような反発を含んでいるように見える。

それはもちろん、相対する教会側の敵意を反映したものだ。

そしてこの構図は、いまもほとんど変わっていない。

2008年にロンドンの自然史博物館で行われた、進化生物学者のリチャード・ドーキンスと数学者で哲学者でクリスチャンでもあるジョン・レノックスのディベートにも、その対立構図がくっきり。この討論はYou Tubeで現在も公開されている。

討論のお題は「科学は神を葬ってしまったのか? 宗教はもう時代遅れになったのか?」というもの。

リチャード・ドーキンスは徹底的な無神論の立場から、「宗教はかつて人類が必要としたおとぎ話であり、我々はもうそんな子ども時代の幻想なんか捨てて大人になるべきだ」と主張する。

これに対して、ジョン・レノックスは、信じることの有用性を語っている。

信仰は人びとを実際に救い、人生を豊かにする。とにかくそれは事実であるのだ、と。

わたしは、ドーキンスの苛立ちも分からないことはないけれども、この世に神はいないと主張しても、べつに何一ついいことはないと思う。

「神か、科学か」を選ばなければならないというドーキンスの二者択一的な無神論の立場は、それと真逆の、自分の信じる聖典(コーランなり聖書なり仏典なり)に書いてあることの字義通りの解釈のみが正しいと主張する宗教原理主義者の立場とそっくりだ。

宗教原理主義者と戦闘的還元主義者に共通しているのは、「わたしの見ている現実がこの世で唯一の現実」だと主張してやまないこと、それをすべての人に押し付けようとしていること。

レノックスは現実主義で、「べつに真理とかは一つでなくてもいいじゃないか、それよりとりあえず結果が出ていることを大切にしよう」という立場。わたしもそう思う。

信仰する人にとって神は現実である。

それは本当に本当の現実であって、実際に奇跡は起きる。

歴史のはじめから人は神と対話をしてきたのだし、何千年もかけてその対話システムを更新してきた。20世紀以降、人類は色々なシステムが共存する世界をなんとか平和に維持しようとしてきたのではないか。

頭脳の数だけ現実があるのだから、神を信じる人に対して信じない人が「神などいない」と大上段に構えて言ったって、対話は始まりはしないし、信じる人が減るわけもない。無益なケンカが増えるだけである。

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教会に通う人が激減し、「世俗化」が進んでいるとはいっても、アメリカ人の70%は自分を「クリスチャン」だと考えているという。ただしそのうち4分の1は特に教会に通ってはいない。既製の宗教に進んで参加する気はなくても、育ってきた社会の背景に織り込まれていた神を積極的に否定するつもりはない、という人びとだと思う。

宗教に対するこの態度は、日本とさほど違わないんじゃないかという気がする。もちろんアメリカは場所によってまったく思想が違うので、熱心な原理主義的な宗教者が集中しているところも多いのだけど、すくなくとも都市部では、そんな態度の人が多いように思う。

一方で、日本人には、「自分は無宗教」という人が多いけれど、完全な「無神論者」という人はやっぱり少数派のようだ。

ICUの教授が学生を対象に行った調査によると、80%を超える回答者が「特に信奉する宗教はないけれど、何らかの神のような存在は信じる」と答えているという。

つまり、現時点ではまだ日本でもアメリカでも、多分ほかのどの国でも、大多数の人びとが何らかの形で神様、超自然的な存在、または超越的な存在を信じているし、必要としている。

そうして、ドーキンスのような還元主義者と、熱烈な宗教原理主義者とがバトルを繰り広げる傍らで、状況は静かに変わりつつあるのだと思う。

松尾豊さんの著書『人工知能は人間を超えるか』を読んでいたら、次のような一節があった。

「脳は、どうみても電気回路なのである。…人間の思考が、もし何らかの「計算」なのだとしたら、それをコンピュータで実現できないわけがない」

人を超える知能ができると信じる立場、これは究極の還元主義だ。

人間の知能を超える「本当の」人工知能が実現する可能性を荒唐無稽と考えている人は、人間の精神活動のすべてが計算/データであるとは認めないか、計算である可能性を考えてみたことがないかのどちらかだ。

いまのところ、まだヒトの意識というのは何なのか、どういうふうにできているのか、それから生命はどうやって発生するのか、とかそのへんが完全に解明されたわけではないから、還元主義者と神を信じる人の間で、決着はついていない。

でも、実際に人間の知性が再現できてしまったらドーキンスのような戦闘派還元主義者の究極の勝利になるかというと、意外とそうではないような気もする。

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「真理」のしくみは人間の知性には複雑すぎて、すべてを理解できるのは人工知能だけ、ということになるかもしれない。

そのとき、人工知能は「神」に出会うのかもしれない、なんて気もする。

だってね、すべての人間が本当に神を必要としなくなる社会がきたら、その人類はもういまの人類とは決定的に違った存在になっているはずではないでしょうか。

 

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Dichotomy 二分法

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アメリカ人、に限らず多分「欧米人」の好きなセリフに、「世の中には二通りの人間がいる…」というのがあります。

「世の中には二通りの人間がいる。何かを成し遂げる人間と、何かを成し遂げたと主張する人間だ。最初のグループのほうが、ずっと少ない」

というのはマーク・トウェインの言葉だそうです。

「世の中には二通りの人間がいる。知りたいと願う人間と、信じたいと願う人間だ」

というのはニーチェ。ふふふ。いかにもですねー。

「世の中には二通りの人間がいる。与える人と受け取る人だ」
「世の中には二通りの人間がいる。言い訳ばかりしている人と、黙ってさっさと行動する人」
「世の中には二通りの人間がいる。一緒にお酒を飲みたいと思わせる人と、酒でも飲みたいと思う気持ちにさせる人」

…と、この辺はセルフヘルプの本とか、引用句を投稿するのが好きな人のフェイスブックのタイムラインによくでてきそう。

西洋の人がどのくらいこの二分法が好きかというのは、「There are two kinds of people in this world 」で検索してみるとよくわかります。

「世の中には二通りの人間がいる。ピザの耳を食べる人間と食べない人間だ」
「フライドポテトにケチャップをドバドバかけてから食べる人と、ちびちびつけながら食べる人」…

こういうどうでもいい二分法は楽しいです。

わたしは個人的には

「歯磨きのチューブを真ん中から押す人と、端からきちんと押す人」

というのは、かなり重要な分類だと思っています。

2kindsofpeople」というTumblerのページには、いろんな「二通りの人」の図解が。ポルトガルのアートディレクターさんの作品です。
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二分法はたしかにとても便利です。

ただし、それはとても限定された範囲での便利さだということを忘れてしまうと、あとあと面倒なことになるのだと思います。

10代のとき、ピアノの先生に「ソナタ形式」というのは第一主題と第二主題の対立が提示され、その葛藤が展開部でいろいろと戦いを繰り広げ、再現部で主題が弁証法的融合をみるのだ、と教わりました。

これは文明の産んだもっとも優れた世界認識の方法のひとつ、とJ先生は力説していて、10代のわたしはスゲー、と恐れ入って脳裏に刻みつけたのですが、別にその後ヘーゲルを読みふけったわけではないのでベンショウホウテキユウゴウとか止揚とかが実際なんなんだかはあんまりよくわかりません。そしてJ先生の力説していた内容の8割くらいは忘れてしまっているので、たぶん肝心なところが抜け落ちているのかもしれません。

だからアレではあるのだけど、ともかく
「人間は、対立する二項目で世界を認識するのがデフォルト」
というのはほんとだよな、と、これまで生きてきて目撃した中ではそう思います。

何かと対比してみて、「〇〇ではない」ということが分かって初めて、「XXである」ということの意味が分かる。

「世の中の人間には…」にたまに3通りバージョンがあることもあるけど
(「人間には3通りある。困難なときにあなたを助けてくれる人、困難なときにあなたを見捨てる人、そしてあなたを困難に陥れる人」というのも有名らしいです)
これはたいていの場合、二分法のバリエーションと考えていいと思います。
(映画『アメリカン・スナイパー』に出てきた、羊と狼と牧羊犬、というたとえは本当の3分割だと思うけど、それはまた置いておいて)

で、世界を認識するためには二分法で分けて考えるのは便利だしステップとして必要だけど、それが普遍的とか不変の真理だと思い始めると、きっとその瞬間から世界はやせ細っていくことになります。

展開も再現もしないで提示部だけずーっと永遠に続くのは、それは閉じたゆきどまりの世界。

なんか最近、ネットの言説をさらっと見ていても、便利なカテゴリー分けが好きな人が多いのかな、なんかやだな、と感じるようになりました。

世界には二通りの人間がいる。型にはまった考え方を好む人と、型について考える人。

なんてね。

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