Authenticity 自分らしさ

今は「Authenticity(オーセンティシティ)の時代」なのだそうだ。

アメリカで暮らしているとオーセンティシティという言葉をよく読んだり聞いたりする。
特にここ数年、よく耳につくようになった気がする。

オーセンティシティは、

「真実であること」
「ほんものであること」

という意味だが、人や企業などについていうときには、

「自分らしい」「飾っていない」「真摯である」「ブレていない」

という意味で使われる。

マーケティングの世界でも、企業には顧客との関係において、小手先ではないオーセンティシティが求められているのだという。

『Forbes』のオンライン版に、ジョシュ・オンさんというマーケティングの専門家が「The Age of Authenticity: Why Spin is Dead(オーセンティシティの時代:なぜSPINは過去のものになったか)」という記事を書いていた。

オンさんはここで、乗客引きずり下ろし事件後のユナイテッド航空の対応や、プロテストをものすごく適当なアプローチで取り上げて大炎上したペプシのCMなどを最近の失敗例として挙げ、仮にもブランディングを試みるなら、企業はその中心にオーセンティシティを持たなければ話にならない、と主張する。

(以下引用、拙訳)
<オーセンティシティ(または、少なくとも見た目のオーセンティシティ)は、今やブランドにとって必須の要素となった。オーセンティシティは、その会社が危機的状況にどのように対処するかという方法にとどまらず、そのブランドが顧客との間に持つあらゆるやり取りを下支えするものでなければならない。ブランドは、真実のストーリーを語り、そのブランドを取り巻く環境、ブランドのビジョン、そして現在の市場での役割までを含めたスケールで、そのストーリーを捉えることを学ぶ必要がある>
(引用終わり)

…とオンさんは言う。つまり、ほんとうのことを言っている、信頼できる会社だと消費者に信じてもらうためには、会社のあらゆる言動が、その会社が掲げているビジョンやストーリーに矛盾していないかどうかに自覚的でなければならない、というのだ。

これだけ「オーセンティシティ」が強調される世の中になった理由のひとつは、みんなが生活の大きな部分をインターネットに頼るようになったこともあると思う。

何もかもネットで瞬時に「知る」ことができるようになった反面、その情報のうち何がフェイクで何がホンモノなのか見分けがつきにくくなっている。
それだけに、みんな、フェイクな匂いのするものには敏感になっていて、特に若者は企業のウソや作り込みや欺瞞にはものすごく敏感に反応する。

ウソや借りものの整合性は、情報が多くなればなるほどボロが出やすい。

ほんとうの整合性はナマの真実にしかなく、小手先で繕えるものではない、ということなんだろう。

現在のアメリカは、企業も個人も「率直で信頼できる」キャラクターであることが望ましく、そうであるためには大事なことを包み隠さずに胸をはって世界にさらすのがたったひとつのただしいやり方、というのが時代の方向なのだ。

一方で、『ハーバード・ビジネス・レビュー』日本語版(2015年7月)のコラム「『自分らしさ』に潜むパラドックス」で、INSEADのハーミニア・イバーラ教授が、このアメリカ式のオーセンティシティはあまりにも型にはまったものになっていると指摘している。つまり、「自分らしさ」の主張がステレオタイプ化しているというのだ。

イバーラ教授は、
「自分らしさを貫くこと自体が1つのパフォーマンスとなり、右に倣えの行為となっている」
として、北米の上級幹部たちによるスピーチの典型を例に上げる。

(以下引用)
<近年では個人的な話が多く盛り込まれ、かつ綿密に構成されるようになった。冒頭ではたいてい自身のエピソードが語られる。幹部としてのあり方を試された困難や、リーダーシップの信条の元となった試練などが模範的な例だ。そこから「私が学んだこと」へと続き、自分らしくあることの大切さが述べられる。ユーモアと自嘲を交えながら話すのが定石だ。プレゼン全体のトーンは形式張らず自然体だが、内容は細部まで綿密に練られている>
(引用終わり)

わかる! これは、ビジネスから大学からエンターテイメントまで、どんな分野でも、アメリカの「できる人」に求められるコミュニケーションのあり方といって間違いないと思う。

「自己開示、謙遜、逆境を克服した個人的経験など」を含む、オーセンティック・リーダーシップに必要とされているひな形は「非常にアメリカ的」だと教授は指摘し、ある時北京のカンファレンスで聴いた中国人CEOによる講演がこうしたパターンとは全く違っていて、個人的なエピソードも価値観も含まれていなかったことに強い印象を受けた、と言う。

そして、オーセンティシティがリーダーの要件のひとつになるというのは、それが本来は同質化からの脱却を目指していたことを考えると、皮肉なことだと結んでいる。なるほど。

うーん、でもオーセンティシティを求めることってほんとうに「同質化」なんだろうか?

言論統制が行われている中国で、企業の上級幹部が公の場で個人的な経験や価値観を前面に押し出さないであろうことは納得できる。そりゃオーセンティシティとは正反対のプレゼンテーションになることだろう。

でも日本ではどうなのだろうか?

根拠はあまりないのだけど、日本の人がオーセンティシティを求める度合いは、アメリカと中国の真ん中のどこかじゃないかという気がする。

「オーセンティシティ」はとても翻訳しづらい言葉だ。
日本語には完全に同じ概念がないのだ。

「本物らしさ」「自分らしさ」だけでは足りないことが多い。
「自分らしさ」を充分に自覚して、それを体現していること、という意味を含むからだ。

とはいえ、アメリカ人が「オーセンティシティ」というときのニュアンスにいまいち統一感がない気がするな、と思っていたら、ニューヨーク・タイムズに
Unless You’re Oprah, ‘Be Yourself’ Is Terrible Advice
(あなたがオプラでない限り、『あなた自身であれ』というのはとんでもないアドバイスだ)」
というコラムをみつけた。2016年6月の記事で、ペンシルバニア大学のアダム・グラントさんという心理学の教授が書いたもの。

(以下引用、拙訳)
<私たちは「オーセンティシティの時代」を生きている。人生や恋愛や仕事についてのアドバイスでは、「あなた自身でありなさい」というのが定石だ。オーセンティシティというのは、あなたが自分の中で強く信じていることと、外側に見せる事柄の間のギャップをなくすことだ。ヒューストン大学のブレネー・ブラウン教授が定義しているとおり、オーセンティシティとは「あなたの本当の姿を見せるという選択」なのである>
(引用終わり)

そして、多くの人にとって「あなた自身であれ」というのはひどいアドバイスだ、と続ける。なぜなら、自分が抱えている本当の考えというのは、外に見せるべきものではないからだ、という。

グラント教授はさらに、A・J・ジェイコブスさんという作家による、心に浮かぶことをなんでも実行してみて「真にオーセンティックな自分になってみる実験」を例にひいて、オーセンティックとは恐ろしいものだ、というのだ。

とはいってもこのジェイコブスさんは幸い極悪人ではなく、「真にオーセンティックな」行動はわりとかわいいものだった。

知り合いの女の子に、妻がいなければデートに誘うんだけどな、と言ってみたり、親戚との会話中に「あんたの話はつまんないね」と正直に言ったり、手のひらに虫を載せている5歳の女の子に「その虫はお昼寝してるんじゃなくて死んでるんだよ」と教えてあげたり………。

そしてその実験により、ジェイコブスさんは「嘘がなければ結婚生活も世の中も成り立たない」という結論に達したのだとか。

グラント教授は、人にはセルフモニタリングが高い人と低い人がおり、高い人は常に周囲の環境を精査して、その場にふさわしい行動をしようと心がける、と語る。低い人はより「オーセンティック」である傾向が高いといえるが、モニタリングが高い人は社会的に成功している確率が高い、とも。そして、固まった「真の自分」がいるという頑なな思い込みは害になると警告し、「オーセンティシティ」の代わりに「誠実さ」を目指すべきだと説く。

「他の人に自分をどのように見せたいか」ということに注意を向けて、その方向に向かって変わっていこうとするほうが良い、というのが教授の主旨だ。

私はこの記事を読んで、違和感を持った。
ん? そうなん? オーセンティシティや自分らしさって「やりたい放題」とは違うんでないの?「何になりたいか」まで含めてが「自分らしさ」じゃないの?
…と思ったら、やはり反論も出ていた。

グラント教授のコラムが出てすぐ3日後にハフィントンポストに掲載されたアイラ・イズラエルさんというサイコセラピストの人の記事「What is Authenticity? (オーセンティシティとは何か?)」。わたしはこっちの方が納得できた。

イズラエルさんは、まず、グラントさんが定義しているのは「オーセンティシティ」ではなくて「自己一致」であり、「オーセンティシティ」は、自分が外の世界に見せているペルソナとは矛盾することもある、という。

そして面白いことに、この最近流行りの「オーセンティシティ」も、「マインドフルネス」も「コンパッション」も、みな、ここ半世紀の間に米国で広まってきた仏教哲学の流れを汲む考え方だと指摘しているのだ。そして、心理学者は西洋式の科学の手法を適用するために実験や数量化をしようとするが、そういう実験はそもそもこのような考え方にはなじまないのだと、イズラエルさんは主張する。

ジェイコブスさんの実験も、イズラエルさんは「オーセンティシティとは何の関係もない」とばっさり。

人の頭には1日に平均5万から9万の考えが浮かぶもので、それを口に出したり実行することが「オーセンティシティ」なら、刑務所がいくつあっても足りなくなる、ともイズラエルさんは言っている。

そうなのか、米国人の心理方面の専門家の間でも「オーセンティシティ」とは何かについてこんなに意見が違うものなのか、というのがまず面白かった。

そして、こういう考え方は1950年代以降の東洋哲学の流れを汲むものだといわれてみれば、なるほど、と納得できる。

そうだった。

アメリカも半世紀前までは、「自分らしさ」を主張して良い社会ではなかったんだった。

1960年代までのアメリカは、男らしさ、女らしさ、良い父親らしさ、良い母親らしさ、良い子どもらしさ、白人らしさ、黒人らしさなどなどの縛りが世間を硬く覆っていた。南部だけでなく北部でも非白人がいて良い場所といけない場所が法律や暗黙の了解で決められていたし、女性が就ける職業も限られていた。

マイノリティ、女性、障がいを持つ人、同性愛者など、きわめて限定された居場所を無理やりに押しつけられてきた立場の人々が半世紀以上闘い続けた結果、アメリカ人は、「オーセンティシティの時代」にやっとたどり着いたのだった。

そして、それまでの規範がもう役に立たなくなってしまったあとで、途方にくれた人々が考え方のよすがとして発見したのが仏教などの東洋哲学だった。

アメリカの東洋思想というとお手軽な東洋カブレとしてバカにされがちだけど、ビート・ジェネレーションに遡るその体験は切実なものだった。それは連綿と受け継がれてアメリカ文化に深く根を張り、一般の人々の「自分らしさ」についての考え方にまで影響している。

それで、日本は?というと、前述したように、私の印象では日本はアメリカと中国の真ん中へんにいるような気がする。

戦時中のような、正解をはみ出すと罰せられるという言論統制はなくなった。

露骨なお仕着せも減った。「こういう人はこう生きなければならない、こういう場ではこうでなければならない」というガチガチのキマリ社会でもなくなってきているようだ。

でも、学校や会社やエンターテイメントまで含め、あらゆる場所で「オーセンティシティ」「あなたらしさ」「自分らしさ」の発露が求められている社会でもない、のではないだろうか。

オーセンティシティを大切にする社会が人類文明の究極の形だなんていうつもりもないが、個人の幸せと自由・博愛・平等の可能性を追求していくと、結局そういうことになるんじゃないかという気がする。

日本では、まだ「場のキマリ」の引力のほうが、「自分らしさ」を求める引力よりもずっと強いように見える。場のキマリは多方面で崩壊しつつあるようだけれど。

「自分らしくあれ」というのは、確かにひどいアドバイスかもしれない。
まず自分らしさとは何かの確認からはじめなくてはならないし、それはあんまり簡単なことではない。ひょっとすると、グラント教授が危惧するように、固定した自分自身を表現しなくてはならないと思い込んでしまい、妙な自分探しの強迫観念の中に迷い込んでしまう人もいるかもしれない。

でも結局のところ、グラント教授のいう「なりたい人を目指そう」というのと、オーセンティックであるというのは同じことだと思う。

「なりたい人」像なり行きたい場所がはっきりと自覚できたときに、はじめて自分という整合性のあるストーリーが完成するからだ。というか、何がしたいのか、どういう人でありたいのかという欲望を見つめること以外に「自分らしさ」に近づく方法はないと思う。

これからの日本がどんなふうにオーセンティシティに向かっていくのか、向かわないのか、回り道をするのか、それがどんなキーワードで語られていくのか、大変興味深い。

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