いただきます

「いただきます」って英語でなんていうの?と、聞かれることがある。

Google先生に聞いてみると
「いただきます」=「Let’s eat」
と出て来る(笑)。

いや確かに、「ごはんを食べる前に言う言葉」という意味では合ってるけど。
しかしもちろん「Let’s eat(さあ食べよう!)」と「いただきます」は、それ以外のあらゆる意味で、イコールではない。

アメリカ人が食事のたびに「Let’s eat」と言っているかというと決してそうではない。
「Let’s eat!」をどんな場面で言うかというと、例えば人を招いた食事の席で、ご馳走がテーブルに揃ったとき。その家のホストが、テーブルに出すべきものが全部揃ったのに目を配って、「さあ食べましょう」と言う。当然ながら、招かれた側が言うことではない。

「Let’s eat!」には「さあどうぞ、遠慮なく食べてね」というほどの意味がこめられている。

「いただきます」とは立ち位置が正反対の言葉なのだ。

「英語にはこれ(いただきます)に相当する表現はないので、 “Let’s eat!” 「さぁ、食べよう!」と言いましょう」
…なんて書いてあるサイトがあったけど、たとえば食事に招かれた留学生がそこの家の人を差し置いて無理に「Let’s eat!」なんて言ったら、どうにもたまらないほど微笑ましくなっちゃいますよ。

「いただきます」を言わないと落ち着かないなら、日本語で堂々と言えばいいのだ。そこで「何を言ってるんだ?」と不思議がられたら、「日本では食事の前にこう言うのだ」と説明してあげればいい。

でも「それってどういう意味?」と聞かれて、答えられる人はどのくらいいるだろうか。

わたしは自分でご飯を作って一人で食べる時でも「いただきます」を言う。

長年にわたり、ごく漠然と、「いただきます」「ごちそうさま」は、食べものの恵みに感謝する簡易版お祈りのようなものだと解釈していた。自分が育てたわけでもない食べものが複雑な世の中をめぐって手に入ることへの感謝、ちょっと前まで生きていたもの(植物も含め)を栄養分として身体にもらうことへの感謝、味わえることへの感謝、など。

でもこれは共通の認識ではないことを最近知った。

下田美咲さんという若く可愛らしいお嬢さんが書いているコラムに「いただきますを言う人は何にも考えていない」という記事があって、「自分が料理を作る時は、1秒もムダにせずにあたたかく美味しいうちに食べてほしいから、そんな意味のない定型的なことを言ってる暇があったらさっさと食べるほうが、作った人に対する礼儀にかなっている」という主旨だった。

なるほどー!「いただきます」は単に作った人(やおごってくれた人)に対するお礼の挨拶だと思っている人もいるんだ!これはちょっと新鮮な驚きだった。

そうかと思えば、浄土真宗の僧侶である大來尚順さんという方が『東洋経済』書いているコラム「「いただきます」の日本語に隠された深い真意」には、

「本来「いただきます」の前には「いのちを」という言葉が隠されているのです。これを英語にすると「I take your life.」(私は「いのち」を奪う)となり、ストレートでわかりやすくなります。」

「この意味を踏まえると、まず「いただきます」と口にして思うべきことは、「申しわけない」という他のいのちへの懺悔(ざんげ)なのです。すると自ずと頭が下がります。そして、そこから感謝が生まれてくるのです。」

…と断言されている。

「いただきます」は料理を作った人やおごってくれた人にだけ向ける挨拶だと思っている人もいれば、「他のいのちへの懺悔」にまで思いを馳せている人もいる。

どっちかが正しいということはないと思うが、日本人の中でも「いただきます」について、こうまでとらえ方が違うのだ、とあらためて驚かされる。

日本人はずっと昔から「いただきます」「ごちそうさま」と言い続けてきたはずなのにこれほどコンセンサスがないとは不思議。…と思ったら、それも違った。

なんと、この習慣が全国に定着したのは昭和になってからという説が有力のようなのだ。知らなかった。

そういえば、明治や大正に書かれた小説の食事風景で誰かが「いただきます」と言っている場面を読んだことがない気がする。

ウィキペディアのリンクで篠賀大祐さんという方の『日本人はいつから「いただきます」するようになったのか』という電子書籍を見つけて、読んでみた。

短い本だが、「いただきます」と言う時に合掌する人が多い地域と少ない地域を比較した分布図も出ていて面白かった。

語源と歴史については、「いただきます」を飲食の意味で用いるのは狂言にも例があるので歴史は古いが、17世紀はじめ頃の日本語とポルトガルの辞書には「いただきます」の項に食事に関する挨拶の意味が載っていないことから、その当時には一般的な用法ではなかったと思われる、という主旨のことが書かれている。

著者の篠賀さんは、「いただきます」「ごちそうさま」には方言が存在しないということに注目して、したがってこの言葉はテレビや新聞ができてから全国にひろまったのではないか、と指摘している。これは鋭い視点だと思う。

さらに、柳田國男が昭和17年に書いた「最近はやたらにイタダクという言葉が乱用されているが、これはラジオの料理番組のせいであろう」という主旨の文章を引用して、やはり「いただきます」はこの文章が書かれた昭和17年頃に普及し始めたのだろう、と結論している。

また、昭和初期の調査で、調査対象となったすべての家庭が神棚や仏壇にご飯を供えていたという結果にもとづき、篠賀さんは「現在では仏壇や神棚の無い家も多くなっている。そのため、食前のお供えの風習が変化し、仏に対しての祈りの仕草である合掌が、食事の挨拶の仕草となったのではないだろうか」と書いている。

篠賀さんの言うように、「いただきます」「ごちそうさま」は、神仏に手を合わせる代わりの行動として根づいた習慣なのだろうか。
そうだとすれば、やはり、うっすらと、ではあっても「祈り」の性格をもった習慣だといえる。

でも考えてみれば奇妙なことに、「何に」手を合わせるのか、「誰に」言っているのかについて日本人の間にほとんど共通の認識がないし、意識している人も少ない。だから下田さんのようにあくまでも人対人の意味のない挨拶だと考える人もあるほど、自動的な言葉になっている。

わたし自身の考え方は僧侶の大來さんの主張に近い。「いただきます」は、生命を殺して食べるという行為を自覚して居ずまいを正したり、食べものが手にはいるということ、しかもおいしく食べられるということについて感謝したりするために使える便利な儀式であり、そうやって使えば世界一コンパクトな祈りにできる素晴らしい習慣だと個人的には思う。

「祈り」にはいろいろな力がある。本当にいろいろある。
真摯な祈りにはともかく確実に、人の意識と行動を変える力がある。

でも日本には意外と祈りの効用を知らない人が多いと思う。
神社仏閣が無数にあるのに、生活の中に祈りの習慣を持っている人はとても少ないし、「宗教っぽい」行為というだけで眉をひそめられるのがごく一般的な感覚ではないかと思う。

日本は明治から昭和の短期間に国家宗教を作り上げて、敗戦でそれを喪失した国だ。

日本の人の宗教に対する嫌悪感にちかい警戒心には、日露戦争から第二次大戦敗戦までの、爆進して玉砕した神国日本時代の記憶が少なからず関係しているのではないかと、私は思っている。

「いただきます」「ごちそうさま」が、その国家宗教の喪失と前後して全国の習慣になったということは、本当に興味深いと思う。

「いただきます」にはコンパクトな祈りになるパワーがある習慣だと思うけど、でももちろん、祈りというものは人に押し付けたりするべきたぐいのものではない。

篠賀さんの本には、移転先の地域の学校で、給食の時に合掌をさせられたのを宗教行為の強制だとして訴えた親子のエピソードも紹介されていた。

学校で合掌するように強制したりするのは、確かに止めたほうがいいと思う。
祈りも懺悔も感謝も、無理やりやらされても何の役にも立たない。

祈りが意味を持つのは、祈る人が心の底からその必要を感じたときだけだからだ。祈りの作法と必要性が統一されていた社会は、もう過去のものになってしまった。

「いただきます」「ごちそうさま」は、神様の存在があやふやな日本という国で、きっと生活の中の何かの必要を果たしている。それは人によって違うのだと思う。祈りなのかもしれないし、食べるという行為の落ち着かなさを緩和する合図なのかもしれない。
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