Desire あらまほしき(欲望)

2016-0928-1

「desire」という英単語をポジティブに日本語に訳すのが難しい。

たとえば高級リゾートホテルやスパの宣伝などにも、desireという言葉はさらっと使われていたりする。

これを

「あなたの欲望のすべてを満たす贅沢なスパ体験」

なんて日本語にしてしまったら、なんだかやたらにギラギラした、方向性の異なる施設のように聞こえてしまう。
この場合は「欲求」でも「願望」でも「希望」でも、ヘンである。

『リーダーズ英和辞典』の訳語は
(n)欲望、欲求、…心(欲)、好み、性欲、情欲、希望、願望、要求、要請、望みのもの。
この中では「望み」というのが一番穏当な日本語ではあるが、望みという言葉はお行儀がよくて、淡白でよそよそしい印象がある。
えーと、だめなら別にいいんですけど…と、最初から少しあきらめ気味な感じでもある。

その点desireは切実で、それが実現しないといてもたってもいられないのである。

そういえば中年以上の皆様にはなつかしい中森明菜のdesireには、「情熱」というサブタイトルがついていた。熱いのである。

desireの兄弟にgreedというのがある。
『リーダーズ』ではgreedは
1.    (特に富・利得に対する)意地汚い欲望、貪欲、強欲。2.食い意地、大食。
と説明されている。

Oxford英英辞典では
desireは
A strong feeling of wanting to have something or wishing for something to happen
(何かを手に入れたいと欲する、または何かが起こることを願う、強い感情)
とあり、
greedは
Intense and selfish desire for something, especially wealth, power, or food
(特に富や力、食物に対する烈しく、身勝手な欲望)
とある。

desireとgreedの違いは、「身勝手」であるかどうかのようだ。

自分やまわりを傷つけることに頓着せず、欲求だけに盲目になっている状態がgreed。
たとえば『千と千尋の神隠し』のカオナシは、迷えるgreedの権化でしたね。

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「おいしいご飯が食べたい」と心の底から願う気持ちがdesireであるのに対して、greedには、まわりの人が飢えていても自分の穀物倉に食料を貯め続けるとか、人の手からオニギリを奪って食べるとか、あるいはもうお腹がいっぱいなのに飽き足らずご馳走を目の間に並べてしまうとか、そういう前提がある。
desireが暴走した状態がgreedなのだといえる。

greed といえば、映画『ウォール街』(1987年)でマイケル・ダグラスが演じるゴードン・ゲッコーのセリフが有名だ。

The point is, ladies and gentleman, that greed — for lack of a better word — is good.  Greed is right.  Greed works.  Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit.  Greed, in all of its forms — greed for life, for money, for love, knowledge — has marked the upward surge of mankind.  And greed — you mark my words — will not only save Teldar Paper, but that other malfunctioning corporation called the USA.

「いいですか、皆さん。他にもっと良い言葉がないのでgreedと呼ぶが、greedは善いものです。greedは正しい。greedは物事をうまく回らせ、はっきりさせ、道を拓き、前進する精神のエッセンスを表している。あらゆる形のgreed、生命や金や愛や知識に対するgreedが、人類を進歩させてきたのです。Greedは、この会社を救うだけではなく、アメリカ合衆国という、この機能不全の組織をも救うのです」

この臆面もない欲望礼賛のスピーチは、観客をはっとさせ、この人物の狂気スレスレで回っている自信とパワーをものすごくよく代弁して、80年代映画を代表する名セリフの一つにもなった。

日本語字幕でこのgreedがどう訳されたのか気になるところ。「貪欲さ」かな。いずれにしても、greedというネガティブな言葉が表すところの、普通なら眉をひそめるべきなりふり構わない自分勝手で迷惑な力を全面的に肯定したところに、このセリフの破壊力があった。
オリバー・ストーン監督の意図とはうらはらに、ゲッコーに心酔してしまった観客も多かったという。

ゲッコーはもちろん、desireとgreedをすり替えている。
これがdesireだったらごく当たり前のスピーチであって、ちっとも衝撃的ではないのだ。

こうありたい、こうなりたい、もっと知りたい、もっと速く動きたい、もっと遠くへ行きたい、もっと美しくなりたい、もっと美しいものが作りたい、あの人と一緒にいたい、これが食べたい。生きていたい。…というような強い望みは、すべてdesireである。

desire は、人がなにかをする原動力だ。人間だけではなくて、どの生きものにも備わっている、根源的な力なのだと思う。
植物が土と水さえあれば根を張ってどんどん葉をのばしていくのをみていると、生命活動というのはすなわちdesireそのものなのだと思わされる。

Desireがgreedに変わるのは、リソースを奪い合う他の個体との軋轢による。
ほかの木を枯らしても自分の場所を確保しようとする植物は、人間の目に強欲にうつる。
たらふく食べたいという願望が心にあるだけの間は平和だが、一つしかないオニギリを飢えた子どもたちと分け合わねばならないとなったら、そこには人がgreedにおちいる舞台が用意されている。

西洋社会、とくにアメリカでは、明らかにgreed(強欲)に陥っていない限り、desire(素直な欲求、欲望、望み)はデフォルトで礼賛されている。
ゲッコーのスピーチのgreedをdesireに変えれば、たとえば教会の牧師さんが日曜の礼拝で言っても不思議ではない。
「わたしたちはこのように切実な願いを持っている。このdesireが神の目にかなうものなのであれば、神はわたしたちを祝福してくださるでしょう」
というように。

西へ西へと国土を広げてきたアメリカという国では、たぶんほかの西洋諸国よりもずっとこの傾向が強いのだ思う。
だだっ広い大平原に出かけていって家を建て、畑をつくり、街を築くには、強いdesireが必要だ。
それはもちろん、そこにもとから住んでいた先住民にとっては大変迷惑なことではあったが。
そのようにして道を切りひらき成功した人をアメリカは手放しで讃えるし、たぶん多くのアメリカ人にとっては「自分のしたいことを追求するあまりちょっとばかり人の迷惑になってる人」と「desireがないように見える人」を比べたら、ちょっとくらい迷惑である人のほうに強く共感できるのではないだろうか。
desireがないというのはつまり、ちゃんと生きていないということ、という考え方なのだ。

それに対して日本語では、desire的な状況がかなり蔑視されている気がする。

これには仏教と儒教の影響があるのだと思う。

この世の苦しみから自由になることにフォーカスしている仏教では、「欲」は基本、真実の平安へと至る道の障害物として取り扱われる。

儒教はよく知らないけど、たぶん個人の欲望とはあまり互換性がない教えではないかと思われる。

かといって日本にdesireのニーズがないわけではもちろんないので、そのニーズを受け止めてくれるのは八百万の神様たちであろう。

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苦しいときに救いを求めて祈る対象は仏でも、個人的なdesireを聞き届けてもらいたいと願う先は、あちらこちらの神社の神様や、あるいは仏教にとりこまれた眷属たちでなければならない。
仏様のところにそんな願いを持っていっても、「まだわかってないね。万物は空なのだよ」とやんわり諌められてしまうに違いない気がするからだ。

日本では長いこと、仏教と儒教と、あらゆる場所にいるいろいろな神様に役割分担がふられてきた。
Desire部門はおもに神様たちの担当だったけれど、そこに体系的な教義のバックアップはなくて、どちらかというとアドホック的なご担当だったと思う。

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権力を持つインテリ層のほとんどは仏教か儒教の勉強をしている人びとだったので、日本人の精神生活の中ではdesire的な状況は蔑まれる傾向にあったのではないか、なんて思う。欲などはしょせん知恵や修行の足りない大衆のものだったのだ。

庶民文化ではもちろん欲望が全開で花開いていたけれど、それも仏教や儒教が上に控えてフタをされていたために、ちょっと面白いねじ曲がり方をしてるんだと思う。日本文化の中にデフォルトで入っているホンネとタテマエのこの二重構造はとても面白い。

言葉は文化が作るもので、その中で生活する人びとはその文化と言葉の影響を受ける。
そして言葉は、何百世代にもわたって受け継がれている集合的な記憶と知識のあらわれでもある。

いまから千年後にまだ日本語を話す文化があれば、そこではdesire的な状況を示す日本語はもっと楽観的で気さくなものになっているような気がする。

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Engage エンゲージ 

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語学学習者の中にはたまに、辞書に載っている訳語がその単語のすべてであって、言葉というものは地図の記号や化学式かなにかのようにゆるぎない「一対一対応」である、と思い込んでいるらしい人がいる。

もちろん、そんなことはない。

どんな国のどんな言葉も、単なる記号ではない。

言葉は文化であり、思想と感受性の反映であって、使う人あってのもの。
時代が変わり、生活と考えかた、ものの感じ方が変われば、当然言葉も変わる。

そして、その言葉が表す考え方、感じ方というのは、ほかの国の言葉にそっくりニュアンスを損なわずに移し替えるのが難しいことが、かなり多い。

辞書に載っている訳語は編纂した人びとが苦労して集めた「そっくりさん」たちなのだ。

日頃、英語と日本語の単語を相手にしていて、すっきり翻訳できる言葉や概念というのは、もしかして例外的なのではないかと思うこともある。

たとえば、とても翻訳しにくい言葉のひとつに「ENGAGE」というのがある。

日本語の中に入り込んでいる「エンゲージ」は「婚約」だけれど、それはこの言葉がもつ意味の中の、ほんの一部にすぎない。

「リーダーズ英和辞典」の訳語では、
(自動詞)
1.約束する、請け合う、保証する
2.従事する、携わる、乗り出す、参加する、関心をもつ、かかわる、交戦する
3.(歯車などが)掛かる、かみ合う、はいる、連動する
(他動詞)
1.         契約(約束)で束縛する、保証する、婚約させる、雇う、予約する
2.         従事させる、交戦する、(会話などに)引き込む、注意をひく、魅了する
…などがあがっている。
でも、ここに並んだ訳語を見ても、この言葉のイメージはつかみにくいのではないだろうか。

Google によると、engage の語源はフランス語で、もとは「なにかを担保に誓約する」という意味の単語だったそうだ。それが「契約」の意味を帯び、やがて「なにか、または誰かに深くかかわる」という意味になってきた、らしい。

いまのアメリカ英語では、「engage」はビジネスの場面でも、日常の場面でも、わりと頻繁に使われる。

会話にengage するといえば、スマホをいじったりせずに相手の言うことに注意と関心を向けて会話をする、ということ。

企業の多くが、社員がengageできる会社にすることを目標のひとつに掲げている。
仕事にengageしている社員とは、主体的に意欲を持って仕事に取り組み、会社の成功に対して当事者意識を持っている社員のこと。

engageは最近流行のマーケティング用語でもある。いかに多くの人に製品やブランドにengageしてもらうか、についてたくさん本が書かれている。
ブランドにengageするとは、そのブランドを自分の生活と価値観の延長として愛着を持つこと、を指す。

このマーケティング用語としてのengage/engagementという概念は、最近、日本でも「エンゲージメント」とカタカナ語になって輸入されている。

これらの文脈のengageとは、つまり、「主体的になにかの対象に意識を向け、働きかける」ということだ。

感覚としては「身を入れる」というのが近いのではないかと思うけど、「身を入れる」という言葉には、相手についての意識が低い。
engageには双方向の意識がはたらいている。
日本語には「engage」が表現する「歯車が噛みあうようにしっかり対象に向き合う/向き合わせる」をコンパクトに表す単語はない。

訳語としては、だから、その文脈によって「つながる」としたり「魅了する/される」「惹きつける」などいろいろひねり出したり、流行のマーケティング用語にならってカタカナを使ったりすることになる。

Google Ngram Viewerを見ると、19世紀初頭をピークに減っていた使用例が、60
年代からゆるやかに増え続けている傾向がわかる。

https://books.google.com/ngrams/graph?year_start=1800&year_end=2008&corpus=15&smoothing=7&case_insensitive=on&content=engage

20世紀後半、第二次大戦後に育った若者が大人になった頃から、アメリカ社会は激しく変わった。これは世界的な傾向ではあるけれど、とくにアメリカは、世界で最も豊かで最もひどい矛盾を内側に抱えた国家として、世界の中で真っ先に数々の大騒乱を巻き起こしてみせた。

公民権運動、反戦運動、東洋思想への傾倒、ウーマンリブ、フリーセックス、ドラッグ、ロックンロール、そして、やがてその後半世紀かけて人々の生活を完全に変えてしまう情報技術の台頭、経済の加速。

白人男性のエスタブリッシュメントたちが政治や経済を取り仕切っていた社会から、多様な背景・価値観・文化を持つ人々とつきあい、互いの価値を認めざるをえない社会へ。そして経済もテクノロジーもますます加速し、価値観が日々更新される目まぐるしい社会へ。アメリカは先頭をきって変わっていった。

Engage という単語は、そうした多様化しつつあらゆる面で加速する社会の中で個人に要求されている心の状態を、はからずも象徴しているように思える。

相手の注意をがっしりと捉える。意識を最大限に集中して主体的にその場に(あるいは人やモノに)向ける。

少し目を離しているとテクノロジーも政治も経済も社会の制度も常識も、どんどん変わっていってしまう。社会の中になにがしかの位置を占めたいなら、そのスピードについていかねばならない。

アメリカ企業のカルチャーの中では、常に変化についていくために、周囲のすべてに「エンゲージ」していることが要求される。

「Engage」は、1980年代後半からオンエアが始まった『新スタートレック』(原題は「スタートレック:ザ・ネクスト・ジェネレーション」)のピカード艦長のセリフとしても有名だ。

USSエンタープライズをワープ航法に切り替えて、光よりも速く移動する時に、ピカード艦長が全士官に出す命令が「エンゲージ」である。

この言葉の性格は、このピカード艦長の命令にとてもよく表れていると思う。

新時代には、みんなワープの速度で飛んでいかねばならないのだ。

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