Dichotomy 二分法

2016-0526-1

アメリカ人、に限らず多分「欧米人」の好きなセリフに、「世の中には二通りの人間がいる…」というのがあります。

「世の中には二通りの人間がいる。何かを成し遂げる人間と、何かを成し遂げたと主張する人間だ。最初のグループのほうが、ずっと少ない」

というのはマーク・トウェインの言葉だそうです。

「世の中には二通りの人間がいる。知りたいと願う人間と、信じたいと願う人間だ」

というのはニーチェ。ふふふ。いかにもですねー。

「世の中には二通りの人間がいる。与える人と受け取る人だ」
「世の中には二通りの人間がいる。言い訳ばかりしている人と、黙ってさっさと行動する人」
「世の中には二通りの人間がいる。一緒にお酒を飲みたいと思わせる人と、酒でも飲みたいと思う気持ちにさせる人」

…と、この辺はセルフヘルプの本とか、引用句を投稿するのが好きな人のフェイスブックのタイムラインによくでてきそう。

西洋の人がどのくらいこの二分法が好きかというのは、「There are two kinds of people in this world 」で検索してみるとよくわかります。

「世の中には二通りの人間がいる。ピザの耳を食べる人間と食べない人間だ」
「フライドポテトにケチャップをドバドバかけてから食べる人と、ちびちびつけながら食べる人」…

こういうどうでもいい二分法は楽しいです。

わたしは個人的には

「歯磨きのチューブを真ん中から押す人と、端からきちんと押す人」

というのは、かなり重要な分類だと思っています。

2kindsofpeople」というTumblerのページには、いろんな「二通りの人」の図解が。ポルトガルのアートディレクターさんの作品です。
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二分法はたしかにとても便利です。

ただし、それはとても限定された範囲での便利さだということを忘れてしまうと、あとあと面倒なことになるのだと思います。

10代のとき、ピアノの先生に「ソナタ形式」というのは第一主題と第二主題の対立が提示され、その葛藤が展開部でいろいろと戦いを繰り広げ、再現部で主題が弁証法的融合をみるのだ、と教わりました。

これは文明の産んだもっとも優れた世界認識の方法のひとつ、とJ先生は力説していて、10代のわたしはスゲー、と恐れ入って脳裏に刻みつけたのですが、別にその後ヘーゲルを読みふけったわけではないのでベンショウホウテキユウゴウとか止揚とかが実際なんなんだかはあんまりよくわかりません。そしてJ先生の力説していた内容の8割くらいは忘れてしまっているので、たぶん肝心なところが抜け落ちているのかもしれません。

だからアレではあるのだけど、ともかく
「人間は、対立する二項目で世界を認識するのがデフォルト」
というのはほんとだよな、と、これまで生きてきて目撃した中ではそう思います。

何かと対比してみて、「〇〇ではない」ということが分かって初めて、「XXである」ということの意味が分かる。

「世の中の人間には…」にたまに3通りバージョンがあることもあるけど
(「人間には3通りある。困難なときにあなたを助けてくれる人、困難なときにあなたを見捨てる人、そしてあなたを困難に陥れる人」というのも有名らしいです)
これはたいていの場合、二分法のバリエーションと考えていいと思います。
(映画『アメリカン・スナイパー』に出てきた、羊と狼と牧羊犬、というたとえは本当の3分割だと思うけど、それはまた置いておいて)

で、世界を認識するためには二分法で分けて考えるのは便利だしステップとして必要だけど、それが普遍的とか不変の真理だと思い始めると、きっとその瞬間から世界はやせ細っていくことになります。

展開も再現もしないで提示部だけずーっと永遠に続くのは、それは閉じたゆきどまりの世界。

なんか最近、ネットの言説をさらっと見ていても、便利なカテゴリー分けが好きな人が多いのかな、なんかやだな、と感じるようになりました。

世界には二通りの人間がいる。型にはまった考え方を好む人と、型について考える人。

なんてね。

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