Redemption 贖い

2015-0521-1

 

先日、めずらしく封切り館に映画を観に行きました。何を観たかというと、なぜか『MAD MAX Fury Road』(邦題『マッド・マックス 怒りのデスロード』笑)。予告編を見てこれはもしかしたら期待できるかも、と思ったんですが、あまりにも怒りのデスロードでのカーチェイスがえんえんと続くので、おばちゃんちょっと疲れたわ。
ていうかこの邦題を知ってたら行ってなかったかも(笑)。もう何でもかんでもてんこ盛りの凶悪な集団のビジュアルは、元気の良いデスメタルバンドみたいで面白かったですが。

ボウズ頭で片腕の戦士フュリオーサを演じるシャーリーズ・セロンが坊主頭にもかかわらず美しかったです。きれいな人はどんなになっても美しい。
幼いころに凶悪な集団に誘拐されて、数十年後に凶悪な集団の主のハーレムの妻たちとともに砂漠を横断して祖国への帰還を試みる「フュリオーサ」という女の役でした。

カーチェイスで追われまくり、ボロボロになった旅路の果てに、どうしてキミはこの危険な旅に出たんだ、と聞かれて、この「フュリオーサ」は

「Redemption」

と答えます。映画の中ではこれは違和感ありすぎの言葉でした。幼いときからこの凶悪な世界で育ってこの言葉は出てこないだろうと思った。この映画に真面目にツッコミを入れるのもどうかと思いますが。

でも、これって、欧米の観客には、すっと胸に落ちる言葉なんだろう、とも思いました。

Redemption。
「ランダムハウス英和辞典」では「(約束の)履行/(身代金などの支払いによる)救出/(キリストの犠牲による)罪の贖い、贖罪、救済、救い/(犯罪に対する)償い、贖い/(抵当、手形、債券などの)弁済、償還、償却/(質などの)取り戻し、請け出し」とあります。

日本語でこのフュリオーサのセリフはなんと訳されるのでしょうか。
「あがない」では、日本の観客にはちょっとピンと来ないんじゃないだろうか。

ティム・ロビンスとモーガン・フリーマンの共演した刑務所映画『ショーシャンクの空に』の原題は、『The Shawshank Redemption』。
無実の罪で刑務所に入れられ、横暴な所長の下で20年間も我慢し続けた銀行家が、最後にものすごーーいredemption を得るというお話。長い長い絶望的な刑務所生活がリアリティたっぷりにきめ細かく描かれたあとの、オチのカタルシスがたまらない映画で、ハッピーエンドの映画ベスト100というのがあったら必ず上位にランクインすると思う。

これも、『ショーシャンクのあがない』では、やはり日本語としてredemption のイメージがわかないですよね。

「Redemption」という言葉には、ランダムハウスに並んだ訳語をざっと見ても、「なにかの約束や契約で対価ががっちりと決まっていて、それが履行される」という意味と、「罪が許される」という意味が同居しています。
単に契約どおりのものを返すとか支払うとかではない「贖い」の背景には、やはりキリストの死をもって人類の罪を贖うという救済の物語があるのだと思う。
十字架による贖い、あるいは、それ以前のユダヤ教の、祭壇に捧げる犠牲による贖い。
この言葉には、神という圧倒的な力と向き合うという体験が含まれているといっていいと思います。

「Redemption 」にある感覚は、その圧倒的なボリューム感なのだと思います。

ひと一人分の人生に値するくらいの経験と時間を、あるいは命を、何かと引き換えにする、というときに使われる言葉。ビール代の5ドル貸してあげたのを返すのとはちがう。

それで日本語にそういう言葉はないかというと、もちろん償還とか贖いとかの言葉はあるけど、日常生活ではぜんぜん使われない。圧倒的な体験や命と引き換えに何かを得るとか、犠牲により何かを救済するというコンセプトが、欧米の文化では普段の生活の中にも漠然と根を張っているといってもいいんじゃないかな、それはやっぱりキリスト教の救済のコンセプトと強い関係があるのじゃないか、と、『怒りのデスロード』を見て考えたのでした。

そして思ったのが、日本には「水に流す」という言葉があるけれど、これは「redemption」のある意味真逆にあるコンセプトではないでしょうか。これは一体どこから来たのか。

なぜ日本では日常生活に「贖い」が意識されないのでしょう。「仕返し」はあっても、罪を償却する「あがない」って見当たらない。
多分神道には、そういう何かをもって罪やなにかを贖うという考えがあった/あるのだと思うけど、ていうか、太宰府とか東郷神社とか、ヒトのために神社を建てちゃうっていうコンセプトそのものが「贖い」の手続きなのかもしれないですね。

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