Zombie Apocalypse ゾンビの世界

2015-0527-1

 

「Zompie Apocalypse」というのは、テレビや映画やビデオゲームのジャンルのひとつとして確立してます。

ある日突然世界にゾンビが発生し、恐ろしい勢いで、着実に世界はゾンビに呑み込まれていく。そうして見慣れた日常がすっかりゾンビのものになってしまう。

日本版のウィキペディアにも「ゾンビによる世界の終末」という記事がありました。(なぜか英語版には「ゾンビ」の項はあっても「ゾンビ・アポカリプス」の項はありません)

以下、ウィキから引用。
<人類に敵対的なゾンビが広範囲に(時には全地球的な規模で)出現し、文明がその脅威に曝されるというシナリオである。多くの場合、ゾンビの攻撃を受けた者もゾンビ化(感染)するため、数量は指数関数的に拡大していき、通常の軍事組織や治安維持組織が持つ掃討能力を圧倒する大発生が伝染病のように発生、結果として文明社会は孤立した僅かな生存者を残す程度にまで一挙に崩壊する。この突然放り込まれた四面楚歌の状況の中で、生存者たちは食料や必需品を手に入れるために知恵を絞りつつ、人類の命運を賭けて奮闘することとなる。>

ゾンビで怖いのは、噛まれた人もすぐにゾンビになってしまうということです。
噛まれてしまったが最後、それまで共に戦っていた人も、お母さんも娘も、みんな人を喰うことしか考えない恐ろしいゾンビになってしまい、もう自分を覚えていてはくれません。なんと悲しいことでしょうか。

なんといってもこのシナリオを真に迫る痛切なリアリティで描いているのが、テレビシリーズの『Walking Dead』。(この番組では「ゾンビ」という言葉は使ってませんが)。舞台はアトランタで、もうすっかり世界がゾンビに呑み込まれてからドラマが始まり、生き残った人びとの間にメロドラマがあり確執がありという実に息苦しいドラマです。

Netflixで全話ストリーミング公開中なのでついうっかりと見てしまうのですが、これを寝る前に見るとかなりの高確率でゾンビに追われる辛い夢を見るため、体調の悪い時には見ないようにしています。今シーズン2の途中まで見たところ。なかなか先を見る勇気がわかない。
最近知ったのですが、これって『ショーシャンクの空に』の監督が製作総指揮をとってるんですね。これでもか~、これでもか~、という苦しみが続く話だってところが共通してますね。最後が『ショーシャンクの空に』みたいなハッピーエンドだといいんですが。

ちょっと前には『ゾンビランド』というおバカな映画もありました。ビル・マーレーが気の毒でした。

ゾンビ的世界のビデオゲームをやっている人を見ると、まったく何の呵責も感じずに頭をぶち抜くことができるという点でゾンビというのはエイリアンと同様、なんと都合の良い存在であることか、と思うのですが、でも、周りの人びとがある日、急に話が通じず理解も及ばない凶暴な存在になって自分を追いはじめ、それまでの日常が一気に崩壊してしまい、頼りになるはずの政府も警察も軍隊も、友人も会社も家族さえ、何ひとつ信じられなくなる、というのはある意味エイリアンの襲撃なんかよりもずっと恐ろしい。心の底を冷たい手で撫でられるような恐怖感を催させるシナリオです。

「zombie apocalypse」でグーグル検索すると1400万件以上ヒット、「zombie apocalypse survival」で200万件ヒットするというのを見ても、どれだけ皆がゾンビに頭の片隅を占領されているかがわかるというものです。

ヒットする中には、「ゾンビが発生した際にもっとも致死率が高い州と生き延びる確率が高い州」(「歩行者に優しい(walkable) 」町で金物屋が少ないとゾンビには耐性が低いようです)とか、ゾンビに備えてこれだけは用意しておきたい装備とか、ゾンビについて考察している人が多いのに驚きます。

この現象をきっと社会学のほうで論じてる人もいるんだろうなーと思ったら、やっぱりいた。
タフツ大学のDaniel Dreznerという教授が「国際政治とゾンビ論」という本を書いてらっしゃるそうです。

この本は読んでませんが、MotherboardにDrezner教授に話を聞いて書かれた記事があり、それによると、グーグル検索のトレンドでも「ゾンビ・アポカリプス」という語での検索が2009年頃から急激に増加しているんだそうです。
やっぱり、最近どうもゾンビゾンビってよく目にするって気がしてたのは、気のせいじゃなかったんですね。

この教授は、ゾンビへの関心は「先行き不透明な時代に増え、2009年の金融危機も影響している」といい、「Zombie logic (ゾンビ的論理)」は人間不信を高め、「人間のすることはいつかとんでもない事態を招くに違いない」という不信を蔓延させる、と警鐘を鳴らしています。
(記事の真ん中は今シーズンのWalking Dead のネタバレっぽかったので飛ばして読んだため、肝心なところが読めませんでしたが)
要するに、不安だからといって、周りが皆敵になってしまうゾンビの世界に頭を占領されていては、ますます袋小路にハマってしまうではないか、という主張のようです。

終わったのかどうかわからない永遠に続きそうな戦争、世界中にはびこる悪意、特にアメリカ人に向けられる敵意、所得の格差、貧困、イデオロギーの対立、疫病、環境破壊、経済危機。
どれをとっても解決できそうな糸口さえなくて、ニュースを真面目に見ていたらあっという間に神経衰弱になりそうな毎日。

不安が不安を増幅させる、というのはあるかもしれないけど、これだけ材料が揃えば不安になるのは当たり前、というだけではなくて、まだまだこれから本当にわけのわからない世界が出現するかもしれない、しそうだ、いやするに違いない、という漠然とした不安を感じる人が多いということなんでしょう。

19世紀末や20世紀始めにムンクや象徴派の画家たちが描いたような不安が、いまの世の中にはメタンガスのようにただよっているのかもしれません。

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Redemption 贖い

2015-0521-1

 

先日、めずらしく封切り館に映画を観に行きました。何を観たかというと、なぜか『MAD MAX Fury Road』(邦題『マッド・マックス 怒りのデスロード』笑)。予告編を見てこれはもしかしたら期待できるかも、と思ったんですが、あまりにも怒りのデスロードでのカーチェイスがえんえんと続くので、おばちゃんちょっと疲れたわ。
ていうかこの邦題を知ってたら行ってなかったかも(笑)。もう何でもかんでもてんこ盛りの凶悪な集団のビジュアルは、元気の良いデスメタルバンドみたいで面白かったですが。

ボウズ頭で片腕の戦士フュリオーサを演じるシャーリーズ・セロンが坊主頭にもかかわらず美しかったです。きれいな人はどんなになっても美しい。
幼いころに凶悪な集団に誘拐されて、数十年後に凶悪な集団の主のハーレムの妻たちとともに砂漠を横断して祖国への帰還を試みる「フュリオーサ」という女の役でした。

カーチェイスで追われまくり、ボロボロになった旅路の果てに、どうしてキミはこの危険な旅に出たんだ、と聞かれて、この「フュリオーサ」は

「Redemption」

と答えます。映画の中ではこれは違和感ありすぎの言葉でした。幼いときからこの凶悪な世界で育ってこの言葉は出てこないだろうと思った。この映画に真面目にツッコミを入れるのもどうかと思いますが。

でも、これって、欧米の観客には、すっと胸に落ちる言葉なんだろう、とも思いました。

Redemption。
「ランダムハウス英和辞典」では「(約束の)履行/(身代金などの支払いによる)救出/(キリストの犠牲による)罪の贖い、贖罪、救済、救い/(犯罪に対する)償い、贖い/(抵当、手形、債券などの)弁済、償還、償却/(質などの)取り戻し、請け出し」とあります。

日本語でこのフュリオーサのセリフはなんと訳されるのでしょうか。
「あがない」では、日本の観客にはちょっとピンと来ないんじゃないだろうか。

ティム・ロビンスとモーガン・フリーマンの共演した刑務所映画『ショーシャンクの空に』の原題は、『The Shawshank Redemption』。
無実の罪で刑務所に入れられ、横暴な所長の下で20年間も我慢し続けた銀行家が、最後にものすごーーいredemption を得るというお話。長い長い絶望的な刑務所生活がリアリティたっぷりにきめ細かく描かれたあとの、オチのカタルシスがたまらない映画で、ハッピーエンドの映画ベスト100というのがあったら必ず上位にランクインすると思う。

これも、『ショーシャンクのあがない』では、やはり日本語としてredemption のイメージがわかないですよね。

「Redemption」という言葉には、ランダムハウスに並んだ訳語をざっと見ても、「なにかの約束や契約で対価ががっちりと決まっていて、それが履行される」という意味と、「罪が許される」という意味が同居しています。
単に契約どおりのものを返すとか支払うとかではない「贖い」の背景には、やはりキリストの死をもって人類の罪を贖うという救済の物語があるのだと思う。
十字架による贖い、あるいは、それ以前のユダヤ教の、祭壇に捧げる犠牲による贖い。
この言葉には、神という圧倒的な力と向き合うという体験が含まれているといっていいと思います。

「Redemption 」にある感覚は、その圧倒的なボリューム感なのだと思います。

ひと一人分の人生に値するくらいの経験と時間を、あるいは命を、何かと引き換えにする、というときに使われる言葉。ビール代の5ドル貸してあげたのを返すのとはちがう。

それで日本語にそういう言葉はないかというと、もちろん償還とか贖いとかの言葉はあるけど、日常生活ではぜんぜん使われない。圧倒的な体験や命と引き換えに何かを得るとか、犠牲により何かを救済するというコンセプトが、欧米の文化では普段の生活の中にも漠然と根を張っているといってもいいんじゃないかな、それはやっぱりキリスト教の救済のコンセプトと強い関係があるのじゃないか、と、『怒りのデスロード』を見て考えたのでした。

そして思ったのが、日本には「水に流す」という言葉があるけれど、これは「redemption」のある意味真逆にあるコンセプトではないでしょうか。これは一体どこから来たのか。

なぜ日本では日常生活に「贖い」が意識されないのでしょう。「仕返し」はあっても、罪を償却する「あがない」って見当たらない。
多分神道には、そういう何かをもって罪やなにかを贖うという考えがあった/あるのだと思うけど、ていうか、太宰府とか東郷神社とか、ヒトのために神社を建てちゃうっていうコンセプトそのものが「贖い」の手続きなのかもしれないですね。

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