エンドロール Credit roll

映画の最後に流れるキャストやスタッフや関係各位の名前の部分は「credit roll」だけど日本語では「エンドロール」という。英語にend roll という単語は、ない。

“end roll”で検索してみると、浜崎あゆみの歌「エンドロール」がヒットする。

数年前に日本に帰った時に映画館に映画を見に行ってびっくりしたのは、この「エンドロール/credit roll」が始まっても、だれも席を立とうとしないし、場内が明るくならないこと。

そうだった。日本ではこのエンドロールが終わるまで、映画に敬意を表して?席に座っていましょうというのがマナーのようなことになっていたのだった。

アメリカ人はキャストの名前が流れ始めるとほぼ全員がさっさと立って出口に向かって歩き始める。

私の友人Cは一緒に『キング・コング』を見に行ったとき、コングの運命に胸うたれたあまり号泣して席を立てなかった。
そういう人もたまにいるしそういう映画もたまにあるけど、だいたい90パーセントくらいの確率で、アメリカの観客は「エンドロール」に冷たい。

しかし例外もある。

先日『アイアンマン3』を見に行ったらば、本編がおわっても席を立つ人がまばら。

『1』でも『2』でもそうだったけど、この映画にはエンドロールが終わった後に「おまけ」が30秒くらいついているのを、皆良く知ってるのだった。

これは映画製作に携わった人たちのために名前をちょっとでも読んでもらおうという工夫なのかしら?

にほんブログ村 英語ブログ アメリカ英語へ

 

バイユウ BAYOU

BAYOU という単語は、16年くらい前、初めてルイジアナを訪ねた時に覚えた言葉。
なぜか<ベイヨウ>とおぼえてしまっていた。

正しくは、<バイユウ>。

Merriam-Websterでは
1 : a creek, secondary watercourse, or minor river that is tributary to another body of water
2 : any of various usually marshy or sluggish bodies of water
となっている。

<クリーク、支流、またはどこかへ流れ込む小さな規模の川、または、よどんだ水辺や湿地。>

わりに大雑把な定義だ。小さめの水域ならば流れていてもいなくてもバイユウと呼んでいいらしい。(実際、バイユウのほとんどは流れているのかいないのかよくわからないくらい、のっぺりしている。)

語源は「Louisiana French, from Choctaw bayuk / First Known Use: 1763 」とある。

ルイジアナのあたりはフランス人、スペイン人、インディアン、黒人奴隷、自由黒人が入り混じって、アメリカのほかのどこの土地とも違う独特の文化を作り出していた。

土地のチョクトー族の言葉がフランス人やクレオールのものになっていったのだろう。

ルイジアナは全土の半分くらいがレッドリバーとミシシッピ川という大きな川の川床のようなもので、のっぺりと平たく、標高が低くて、しんと静かな沼地やバイユウがやたらに多い。

レッドリバーもミシシッピ川も、日本の川のように飼いならされていなくて、地図で見るともつれた毛糸のようにくるくるとうねって、あちこちに三日月湖を残して海を目指している。その両脇にたくさんのバイユウが好き勝手な方向に流れ出したり流れ込んだり、池や小さな湖や沼を作っている。

山の多い地域のさらさらと元気のよい小川や渓流はルイジアナでは見ない。低地の水はただ静かで、大きな川でさえ、嵐の時以外は流れがもったりと重い。

ニューオーリンズ郊外の沼地。ハリケーン・カタリナの時に流されてきたという漁船がまだ放置されていた。

先日『Beast of the Southern Wild』という映画を見た。アカデミー賞作品賞と女優賞の候補にもなった、29歳の監督の処女作だという、とってもイキの良い、そしてとても消化しにくい、じわじわ来る映画だった。

舞台はニューオーリンズ郊外、ミシシッピ川がメキシコ湾に流れ込むあたり、水に浸かって繊維が溶けかかった薄い紙のような、水路の間にかろうじてかぼそく陸地が存在している土地、というかすでに「水域」。

バイユウの間に半分以上沈みかかった「バスタブ」という島で生きている人々の話。

この人たちはアメリカという国に属していながら、資本主義経済にまったく参加していないし、参加しようともしていない。素手でナマズを穫り、ザリガニを穫り、ニワトリを育ててつぶして食べる。プラスチックに包まれて店で売られている肉を軽蔑し、病気になろうとも巨大嵐が来ようとも洪水が来ようとも、政府や役所とはいっさいの関わりを持たずに自力で生きようとする。

廃自動車を改造したボートで移動し、もちろん電気も持たず、廃屋のような小屋で毎日ボロボロのシャツ1枚をまとって暮らすお父さんと小さな娘。
まるでアフリカの貧困国のようなプリミティブな暮らしぶり。

ミシシッピ・デルタの貧困を伝えるドキュメンタリーを思い出さずにいられなかった。

アメリカ南部には実際に、電気も水道もない家で、ウォール街やハリウッドがあるのと同じ国とは思えない生活を送っている貧困家庭がたくさん存在している。YouTubeでもたとえばこんな貧困告発のドキュメンタリーを見ることができる。
Poverty in Tallahatchie

でもこの映画の親子たちはまるで前向きで、システムに取り残されたことに絶望するどころか、はなから役所やシステムなど信用せず、自分の生きる力だけを信頼し、沈みかかった沼地で自分の生きる場所を祝福している。

この映画は実際の南部の貧困を材料に得たファンタジーという、なんだか難しい立場にあって、社会正義的な目線で見ようとするとお尻のあたりが居心地悪くなる。とはいえ自助努力ですべて解決すべきで貧困は個人の責任だというティーパーティーの人たちみたいな結論にたどりつくかというと、もちろんそうではない。だって市場経済そのものに背を向けてるんだから。

ルイジアナの沼地を見物に行ったとき、沼のほとりに住んでいる沼ピープルの集落を見た。ボートで乗りつける以外にアクセスのない、一見ぜんぜん居心地よさそうにもアットホームにも見えない家たちからは、よそ者にはまったく理解不可能な強烈なプライドがぷんぷん漂って来ていた。

この映画を見ながら、会ったことのないこの沼ピープルのこともすぐに思い出した。

同じ年に公開されてアカデミー賞を受賞したアン・リーの華麗なCG画像の『Life of Pi』も子どもの目線から超逆境を圧倒的にポジティブにファンタジーの形で描いている。生命力とコントロールしようのない力をケモノで表現していいるところも、偶然とはいえとても似ている。

どちらの子どももケモノについて語ることで、自分の世界を完成させていく。

描かれているのは、他人の作った脈絡の中に取り込まれるのを激しく拒否する、すっきりと強くてすがすがしい生きる力だ。

アメリカ南部ののったりした、一見無気力にも見える静けさの下には、びっくりするほど頑固で強烈な自負心が隠れている。バイユウに潜む、巨大アリゲーターのように。

 

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村