お茶の子さいさい

「簡単にできる」ということを、「お茶の子さいさい」という。

語源辞典」によると、
<「お茶の子」とはお茶に添えて出される菓子のことで、簡単に食べられることから簡単にできるたとえとなった>

とありますが!

これって、英語の「A piece of cake」ってイディオムとまったく同じじゃん!
ということに初めて気づいた。
「a piece of cake」も、「ケーキを食べるくらい簡単」って意味で、「お茶の子さいさい」以上にとってもよく使われますが、単に偶然なのかしら?

日本語と英語でこれほどぴったり同じ意味の比喩はあまりないので、興奮してしまいました。

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いただきます

「いただきます」って英語でなんていうの?と、聞かれることがある。

Google先生に聞いてみると
「いただきます」=「Let’s eat」
と出て来る(笑)。

いや確かに、「ごはんを食べる前に言う言葉」という意味では合ってるけど。
しかしもちろん「Let’s eat(さあ食べよう!)」と「いただきます」は、それ以外のあらゆる意味で、イコールではない。

アメリカ人が食事のたびに「Let’s eat」と言っているかというと決してそうではない。
「Let’s eat!」をどんな場面で言うかというと、例えば人を招いた食事の席で、ご馳走がテーブルに揃ったとき。その家のホストが、テーブルに出すべきものが全部揃ったのに目を配って、「さあ食べましょう」と言う。当然ながら、招かれた側が言うことではない。

「Let’s eat!」には「さあどうぞ、遠慮なく食べてね」というほどの意味がこめられている。

「いただきます」とは立ち位置が正反対の言葉なのだ。

「英語にはこれ(いただきます)に相当する表現はないので、 “Let’s eat!” 「さぁ、食べよう!」と言いましょう」
…なんて書いてあるサイトがあったけど、たとえば食事に招かれた留学生がそこの家の人を差し置いて無理に「Let’s eat!」なんて言ったら、どうにもたまらないほど微笑ましくなっちゃいますよ。

「いただきます」を言わないと落ち着かないなら、日本語で堂々と言えばいいのだ。そこで「何を言ってるんだ?」と不思議がられたら、「日本では食事の前にこう言うのだ」と説明してあげればいい。

でも「それってどういう意味?」と聞かれて、答えられる人はどのくらいいるだろうか。

わたしは自分でご飯を作って一人で食べる時でも「いただきます」を言う。

長年にわたり、ごく漠然と、「いただきます」「ごちそうさま」は、食べものの恵みに感謝する簡易版お祈りのようなものだと解釈していた。自分が育てたわけでもない食べものが複雑な世の中をめぐって手に入ることへの感謝、ちょっと前まで生きていたもの(植物も含め)を栄養分として身体にもらうことへの感謝、味わえることへの感謝、など。

でもこれは共通の認識ではないことを最近知った。

下田美咲さんという若く可愛らしいお嬢さんが書いているコラムに「いただきますを言う人は何にも考えていない」という記事があって、「自分が料理を作る時は、1秒もムダにせずにあたたかく美味しいうちに食べてほしいから、そんな意味のない定型的なことを言ってる暇があったらさっさと食べるほうが、作った人に対する礼儀にかなっている」という主旨だった。

なるほどー!「いただきます」は単に作った人(やおごってくれた人)に対するお礼の挨拶だと思っている人もいるんだ!これはちょっと新鮮な驚きだった。

そうかと思えば、浄土真宗の僧侶である大來尚順さんという方が『東洋経済』書いているコラム「「いただきます」の日本語に隠された深い真意」には、

「本来「いただきます」の前には「いのちを」という言葉が隠されているのです。これを英語にすると「I take your life.」(私は「いのち」を奪う)となり、ストレートでわかりやすくなります。」

「この意味を踏まえると、まず「いただきます」と口にして思うべきことは、「申しわけない」という他のいのちへの懺悔(ざんげ)なのです。すると自ずと頭が下がります。そして、そこから感謝が生まれてくるのです。」

…と断言されている。

「いただきます」は料理を作った人やおごってくれた人にだけ向ける挨拶だと思っている人もいれば、「他のいのちへの懺悔」にまで思いを馳せている人もいる。

どっちかが正しいということはないと思うが、日本人の中でも「いただきます」について、こうまでとらえ方が違うのだ、とあらためて驚かされる。

日本人はずっと昔から「いただきます」「ごちそうさま」と言い続けてきたはずなのにこれほどコンセンサスがないとは不思議。…と思ったら、それも違った。

なんと、この習慣が全国に定着したのは昭和になってからという説が有力のようなのだ。知らなかった。

そういえば、明治や大正に書かれた小説の食事風景で誰かが「いただきます」と言っている場面を読んだことがない気がする。

ウィキペディアのリンクで篠賀大祐さんという方の『日本人はいつから「いただきます」するようになったのか』という電子書籍を見つけて、読んでみた。

短い本だが、「いただきます」と言う時に合掌する人が多い地域と少ない地域を比較した分布図も出ていて面白かった。

語源と歴史については、「いただきます」を飲食の意味で用いるのは狂言にも例があるので歴史は古いが、17世紀はじめ頃の日本語とポルトガルの辞書には「いただきます」の項に食事に関する挨拶の意味が載っていないことから、その当時には一般的な用法ではなかったと思われる、という主旨のことが書かれている。

著者の篠賀さんは、「いただきます」「ごちそうさま」には方言が存在しないということに注目して、したがってこの言葉はテレビや新聞ができてから全国にひろまったのではないか、と指摘している。これは鋭い視点だと思う。

さらに、柳田國男が昭和17年に書いた「最近はやたらにイタダクという言葉が乱用されているが、これはラジオの料理番組のせいであろう」という主旨の文章を引用して、やはり「いただきます」はこの文章が書かれた昭和17年頃に普及し始めたのだろう、と結論している。

また、昭和初期の調査で、調査対象となったすべての家庭が神棚や仏壇にご飯を供えていたという結果にもとづき、篠賀さんは「現在では仏壇や神棚の無い家も多くなっている。そのため、食前のお供えの風習が変化し、仏に対しての祈りの仕草である合掌が、食事の挨拶の仕草となったのではないだろうか」と書いている。

篠賀さんの言うように、「いただきます」「ごちそうさま」は、神仏に手を合わせる代わりの行動として根づいた習慣なのだろうか。
そうだとすれば、やはり、うっすらと、ではあっても「祈り」の性格をもった習慣だといえる。

でも考えてみれば奇妙なことに、「何に」手を合わせるのか、「誰に」言っているのかについて日本人の間にほとんど共通の認識がないし、意識している人も少ない。だから下田さんのようにあくまでも人対人の意味のない挨拶だと考える人もあるほど、自動的な言葉になっている。

わたし自身の考え方は僧侶の大來さんの主張に近い。「いただきます」は、生命を殺して食べるという行為を自覚して居ずまいを正したり、食べものが手にはいるということ、しかもおいしく食べられるということについて感謝したりするために使える便利な儀式であり、そうやって使えば世界一コンパクトな祈りにできる素晴らしい習慣だと個人的には思う。

「祈り」にはいろいろな力がある。本当にいろいろある。
真摯な祈りにはともかく確実に、人の意識と行動を変える力がある。

でも日本には意外と祈りの効用を知らない人が多いと思う。
神社仏閣が無数にあるのに、生活の中に祈りの習慣を持っている人はとても少ないし、「宗教っぽい」行為というだけで眉をひそめられるのがごく一般的な感覚ではないかと思う。

日本は明治から昭和の短期間に国家宗教を作り上げて、敗戦でそれを喪失した国だ。

日本の人の宗教に対する嫌悪感にちかい警戒心には、日露戦争から第二次大戦敗戦までの、爆進して玉砕した神国日本時代の記憶が少なからず関係しているのではないかと、私は思っている。

「いただきます」「ごちそうさま」が、その国家宗教の喪失と前後して全国の習慣になったということは、本当に興味深いと思う。

「いただきます」にはコンパクトな祈りになるパワーがある習慣だと思うけど、でももちろん、祈りというものは人に押し付けたりするべきたぐいのものではない。

篠賀さんの本には、移転先の地域の学校で、給食の時に合掌をさせられたのを宗教行為の強制だとして訴えた親子のエピソードも紹介されていた。

学校で合掌するように強制したりするのは、確かに止めたほうがいいと思う。
祈りも懺悔も感謝も、無理やりやらされても何の役にも立たない。

祈りが意味を持つのは、祈る人が心の底からその必要を感じたときだけだからだ。祈りの作法と必要性が統一されていた社会は、もう過去のものになってしまった。

「いただきます」「ごちそうさま」は、神様の存在があやふやな日本という国で、きっと生活の中の何かの必要を果たしている。それは人によって違うのだと思う。祈りなのかもしれないし、食べるという行為の落ち着かなさを緩和する合図なのかもしれない。
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Go-To

英語のいいまわしで「Go−to なになに」というのがある。

「とりあえずこれだけあれば大丈夫」というほど頼りになるモノや人や場所や音楽や食べものなどのこと。

He is my go-to friend.

This is my go-to bag.

Croissant is my go-to breakfast.

Pizza is my go-to comfort food.

のような言い方をよく聞く。

オンラインのケンブリッジ辞典には

used to describe the best person to deal with a particular problem or do a particular thing, or the best place to get a particular thing or service:

(特定の問題に対処したりある特定のことを行うのに最適の人、または何か特定のものやサービスを得るのに最適の場所をさす)

しちめんどくさい問題が発生したりピンチになったときにするすると問題を解決できる人、というイメージ。

たぶん、「人」から派生してモノのこともさすようになり、「とりあえずこれがあればなんとかなる」というようなモノやサービスのこともさすようになったのではないかと思う。

日本語でこれをうまく簡潔に言い表す単語が、ありそうでない。

「頼りになる」だけじゃちょっと意味が足りない。限定的だけれども絶大な力をもつもの、それがGo-toサムシング。そして「my go-to 」というとき、その対象との間には特殊な絆のようなものが発生している。

「ある一定の状況下で万能の力を発揮する、特別なもの」というような言葉が、なにか日本語になかったかしら。

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Sexy  セクシーな 

翻訳していて困る形容詞のひとつに「sexy」がある。

文字通りの性的魅力をさすのとは別に、「かっこいい」「イケてる」「魅力がある」といったような価値をあらわして、昨今ほとんどどんなものにも使われる。

この間翻訳した新しいレストランを紹介する記事で、内装が「tres sexy」という文章があった。有名シェフがプロデュースする店の洗練された都会的なインテリアの店内を「すごくsexy」といっているのである。

「超セクシーなレストラン」なんて日本語にしたら、違う分野のサービスを提供する店だと受け取られてしまう率が70%くらいなのではないか。
ここは悩んだ末、「目を奪われるほど麗しい」とした。ややひねりすぎではあるが、100%手放しで褒めてるというのではなく、0.05%くらいの毒気を含んだつもり。

『リーダーズ英和辞典』には
-a.性的魅力のある、色っぽい、セクシーな。性に取りつかれた。<広く>魅力的な、人目をひく、かっこいい
とある。

オンラインの『Oxford Living Dictionary』には
•    Sexually attractive or exciting. (性的魅力がある、エキサイティングである)
•    (informal) Very exciting or appealing.
(俗語)非常にエキサイティング、または惹きつける。

とあって、こんな例文がのっている。

‘business magazines might not seem like the sexiest career choice
「ビジネス雑誌での仕事というのは最高にsexyなキャリアとは思えなかったかもしれない」

‘The interesting thing is that sexy wines tend to come from certain grape varieties and wine growing areas.’
「興味深いことに、sexyなワインというのは特定の種類のブドウから出来、特定の産地で生産されるものだ」

‘Milgram was a whiz at devising sexy experiments, but barely interested in any theoretical basis for them.’
「ミルグラムはsexyな実験を考案することにかけては天才的ではあったが、その基礎となる理論については大した関心を持っていなかった」

この最後の例文がさしているのは、性的な行動についての実験ではない。電気ショックを与える係に任命された人が、閉鎖的状況で権威ある人に命じられると迷いながらも被験者に苦痛を与え続けてしまう場合がかなり多いという結果で世間に衝撃を与えた、有名な「ミルグラム実験」を考案したミルグラムさんをさしているのだと思われる。

今でも賛否両論あるこのひどい心理実験のどこがsexyだと言っているのかというと、誰にとっても分かりやすく簡単な仕掛けで、話題にしやすく、人の関心をひき、それまでの常識をくつがえす衝撃を与えたという点なのだろうと思う。
言い換えるなら「センセーショナルで洗練されている」といったところか。

英辞郎くんにも
〈話〉〔物事が新しくて〕格好いい、人目を引く
という説明があるが、うーん、ちょっと残念。
セクシーの魅力は「新しくて」ではないんだよね。格好いいのは確かだが、人目をひくだけではないのだ。

たとえば駅前に新築されたでっかいイオンが新しく人目をひいても、それがセクシーだとは限らない。たぶん違う。

その新しさがセクシーなら、そこには官能的な驚きと、欲望を刺激するという含みがある。
だから、たぶん少し毒がある。

sexyという形容詞は、とりもなおさず、男性もしくは女性の性的魅力に類似したような引力、ということだ。魅力的な人が放つ、異性も同性も有無をいわさず惹きつける力であって、そして同時に、少し浮わついたような、用心ならないようなところもある、というほのめかしがあると思う。
まったく毒気がないとか、100%の安全保証がついているとかのものは、たぶんセクシーではない。

Sexyなものは、きっと人の存在をどこかおびやかすような<キケンなかほり>を持っているのである。

たとえば上の例でいえば、「sexyな心理実験」というのは、手順が煩雑で説明するのにも時間がかかるけれども学問的に意味のある地味な実験、とは多分対極にあるのではないだろうか。

Googleが電子化した書籍に出てくる言葉の用例数をごっそり視覚化してくれるNgram Viewerで検索してみると、[sexy]の用例は1940年代から1960年代にかけてゆるやかに増え、1960年代以降、迷うことなく一直線に急上昇している。

ちょっと思いついて[cute]と比較検索してみた。

1960年代〜80年代に急激に[sexy]が追い上げ、[sexy]が[cute]を追い越すほどの勢いであったものの、70年代から急に[cute]も[sexy]と同じ上昇気流に乗り、後は双子の超優良銘柄のように[sexy]と足並みを揃えて上昇している。面白いー!

さらにここに[delightful][charming]という、19世紀の良家の子女のようなお行儀の良い褒め言葉を入れてみるとさらに面白い結果が。

[delightful][charming]は共に1930年頃から確実に凋落の道をたどっていたが、そろって2000年以降ゆるやかにまた上昇している。全体数では[sexy]と[cute]にまだ勝ってはいるものの、20世紀後半に急に追い上げたこの2つの単語との距離ははっきりと縮まって、いまやほとんど同じレベルにあるといっても良さそうだ。

この結果だけでもちろん言葉の用例がすべて代表されているわけではないし、重要性が計測できるわけでもないのだけれど、見事に世相を反映しているのは確か。

ロックンロールとミニスカートの1960年代以降、[sexy]について語る書籍が雨後のタケノコのごとく増えたのは当然だし。

女性は足首をみせることも許されず、もちろん性について公に語るのもタブーだったフロイトの時代から100年以上たち、いろんなフタが次々に外れて、それまでの社会にあったピューリタン的な縛りが消えてなくなるのと同時に、[sexy]は閉じ込められていた巣箱から飛び出したハトのように一直線に急上昇している。

アメリカでは、もはや[sexy]は社会通念上主要な価値観になってきている。[sexy]なものは明らかにパワーを持っているのだ。

それで、なぜこの言葉の翻訳に困るかというと、いつもいつも「魅力的」ではつまらないし、[sexy]が微量に含んでいるキケンなかほりとか毒をうまく表す日本語がなかなか見つからないからだ。

「婉然」とか「艶やか」などにはちょっと官能的なかほりがするけど、使える文脈は限られている。
今日流通している日本語の中に、 [sexy]にあたるような色っぽい便利な言葉がないのは、きっと社会が認める価値観が微妙にズレているからなのだと思う。

アメリカでの [sexy]という価値観が「ヘルシー」とか「ポジティブ」というのと同じように、ほぼ反論の余地なくあからさまに崇められているのに対して、日本では今のところ、 [sexy]は少なくとも表向き、まったく崇められていないような気がする。

性的な含みのある価値観は今のところの日本語界では文字通りイロモノ扱いで、少し遠くから慎重な距離をおいて、なにかあれば口の端に冷笑を浮かべる用意をしつつ見守られている感じである。
もちろんセクシーなるものに日本で需要がないわけではなくて、絶大な需要がありマーケットがあり百花繚乱なのはわかっているけど、その世界は日常生活とは距離があり壁があり、日常のほうからもあまり簡単に近づけないっぽいのだ。

では日本語界の「魅力的」というジャンルでどんな形容詞が権力を持っているかというと、それはきっとダントツで「かわいい」なのではないかと思う。
「カワイイ」には絶大なパワーがある。それは今の日本で売れている女優さんやアイドルたちをみれば一目瞭然だ。

そういえば、10年位前だったか、塩野七生さんが、日本の男優には大人の色気がないと嘆き、当時絶大な人気だったキムタクを見てなんと幼い顔だろうとおどろいた、というようなエッセイを読んだ覚えがある。その時はへーそういう感じ方もあるんだ、と思ったが、何世紀もの間ブレることなく色気至上の国であるイタリアから来た人には、その印象はまあ当然なのかもしれない。

なぜ日本ではカワイイのほうがセクシーよりも偉いのかについては、きっといろんな論があるのだろうけど、私は、江戸時代に町人文化の重要な部分を「悪所」である遊郭が担っていて、それが明治から昭和にかけて表向き徹底的に抑圧されたのが理由のひとつじゃないかとひそかに思っている。

江戸の町人の言葉の中には[sexy]に相当する単語が多かったんじゃないだろうか。「いなせ」とか「あだっぽい」とか。残念ながらそんなに翻訳には使えないけど。

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Desire あらまほしき(欲望)

2016-0928-1

「desire」という英単語をポジティブに日本語に訳すのが難しい。

たとえば高級リゾートホテルやスパの宣伝などにも、desireという言葉はさらっと使われていたりする。

これを

「あなたの欲望のすべてを満たす贅沢なスパ体験」

なんて日本語にしてしまったら、なんだかやたらにギラギラした、方向性の異なる施設のように聞こえてしまう。
この場合は「欲求」でも「願望」でも「希望」でも、ヘンである。

『リーダーズ英和辞典』の訳語は
(n)欲望、欲求、…心(欲)、好み、性欲、情欲、希望、願望、要求、要請、望みのもの。
この中では「望み」というのが一番穏当な日本語ではあるが、望みという言葉はお行儀がよくて、淡白でよそよそしい印象がある。
えーと、だめなら別にいいんですけど…と、最初から少しあきらめ気味な感じでもある。

その点desireは切実で、それが実現しないといてもたってもいられないのである。

そういえば中年以上の皆様にはなつかしい中森明菜のdesireには、「情熱」というサブタイトルがついていた。熱いのである。

desireの兄弟にgreedというのがある。
『リーダーズ』ではgreedは
1.    (特に富・利得に対する)意地汚い欲望、貪欲、強欲。2.食い意地、大食。
と説明されている。

Oxford英英辞典では
desireは
A strong feeling of wanting to have something or wishing for something to happen
(何かを手に入れたいと欲する、または何かが起こることを願う、強い感情)
とあり、
greedは
Intense and selfish desire for something, especially wealth, power, or food
(特に富や力、食物に対する烈しく、身勝手な欲望)
とある。

desireとgreedの違いは、「身勝手」であるかどうかのようだ。

自分やまわりを傷つけることに頓着せず、欲求だけに盲目になっている状態がgreed。
たとえば『千と千尋の神隠し』のカオナシは、迷えるgreedの権化でしたね。

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「おいしいご飯が食べたい」と心の底から願う気持ちがdesireであるのに対して、greedには、まわりの人が飢えていても自分の穀物倉に食料を貯め続けるとか、人の手からオニギリを奪って食べるとか、あるいはもうお腹がいっぱいなのに飽き足らずご馳走を目の間に並べてしまうとか、そういう前提がある。
desireが暴走した状態がgreedなのだといえる。

greed といえば、映画『ウォール街』(1987年)でマイケル・ダグラスが演じるゴードン・ゲッコーのセリフが有名だ。

The point is, ladies and gentleman, that greed — for lack of a better word — is good.  Greed is right.  Greed works.  Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit.  Greed, in all of its forms — greed for life, for money, for love, knowledge — has marked the upward surge of mankind.  And greed — you mark my words — will not only save Teldar Paper, but that other malfunctioning corporation called the USA.

「いいですか、皆さん。他にもっと良い言葉がないのでgreedと呼ぶが、greedは善いものです。greedは正しい。greedは物事をうまく回らせ、はっきりさせ、道を拓き、前進する精神のエッセンスを表している。あらゆる形のgreed、生命や金や愛や知識に対するgreedが、人類を進歩させてきたのです。Greedは、この会社を救うだけではなく、アメリカ合衆国という、この機能不全の組織をも救うのです」

この臆面もない欲望礼賛のスピーチは、観客をはっとさせ、この人物の狂気スレスレで回っている自信とパワーをものすごくよく代弁して、80年代映画を代表する名セリフの一つにもなった。

日本語字幕でこのgreedがどう訳されたのか気になるところ。「貪欲さ」かな。いずれにしても、greedというネガティブな言葉が表すところの、普通なら眉をひそめるべきなりふり構わない自分勝手で迷惑な力を全面的に肯定したところに、このセリフの破壊力があった。
オリバー・ストーン監督の意図とはうらはらに、ゲッコーに心酔してしまった観客も多かったという。

ゲッコーはもちろん、desireとgreedをすり替えている。
これがdesireだったらごく当たり前のスピーチであって、ちっとも衝撃的ではないのだ。

こうありたい、こうなりたい、もっと知りたい、もっと速く動きたい、もっと遠くへ行きたい、もっと美しくなりたい、もっと美しいものが作りたい、あの人と一緒にいたい、これが食べたい。生きていたい。…というような強い望みは、すべてdesireである。

desire は、人がなにかをする原動力だ。人間だけではなくて、どの生きものにも備わっている、根源的な力なのだと思う。
植物が土と水さえあれば根を張ってどんどん葉をのばしていくのをみていると、生命活動というのはすなわちdesireそのものなのだと思わされる。

Desireがgreedに変わるのは、リソースを奪い合う他の個体との軋轢による。
ほかの木を枯らしても自分の場所を確保しようとする植物は、人間の目に強欲にうつる。
たらふく食べたいという願望が心にあるだけの間は平和だが、一つしかないオニギリを飢えた子どもたちと分け合わねばならないとなったら、そこには人がgreedにおちいる舞台が用意されている。

西洋社会、とくにアメリカでは、明らかにgreed(強欲)に陥っていない限り、desire(素直な欲求、欲望、望み)はデフォルトで礼賛されている。
ゲッコーのスピーチのgreedをdesireに変えれば、たとえば教会の牧師さんが日曜の礼拝で言っても不思議ではない。
「わたしたちはこのように切実な願いを持っている。このdesireが神の目にかなうものなのであれば、神はわたしたちを祝福してくださるでしょう」
というように。

西へ西へと国土を広げてきたアメリカという国では、たぶんほかの西洋諸国よりもずっとこの傾向が強いのだ思う。
だだっ広い大平原に出かけていって家を建て、畑をつくり、街を築くには、強いdesireが必要だ。
それはもちろん、そこにもとから住んでいた先住民にとっては大変迷惑なことではあったが。
そのようにして道を切りひらき成功した人をアメリカは手放しで讃えるし、たぶん多くのアメリカ人にとっては「自分のしたいことを追求するあまりちょっとばかり人の迷惑になってる人」と「desireがないように見える人」を比べたら、ちょっとくらい迷惑である人のほうに強く共感できるのではないだろうか。
desireがないというのはつまり、ちゃんと生きていないということ、という考え方なのだ。

それに対して日本語では、desire的な状況がかなり蔑視されている気がする。

これには仏教と儒教の影響があるのだと思う。

この世の苦しみから自由になることにフォーカスしている仏教では、「欲」は基本、真実の平安へと至る道の障害物として取り扱われる。

儒教はよく知らないけど、たぶん個人の欲望とはあまり互換性がない教えではないかと思われる。

かといって日本にdesireのニーズがないわけではもちろんないので、そのニーズを受け止めてくれるのは八百万の神様たちであろう。

2016-0928-3

苦しいときに救いを求めて祈る対象は仏でも、個人的なdesireを聞き届けてもらいたいと願う先は、あちらこちらの神社の神様や、あるいは仏教にとりこまれた眷属たちでなければならない。
仏様のところにそんな願いを持っていっても、「まだわかってないね。万物は空なのだよ」とやんわり諌められてしまうに違いない気がするからだ。

日本では長いこと、仏教と儒教と、あらゆる場所にいるいろいろな神様に役割分担がふられてきた。
Desire部門はおもに神様たちの担当だったけれど、そこに体系的な教義のバックアップはなくて、どちらかというとアドホック的なご担当だったと思う。

2016-0928-2

権力を持つインテリ層のほとんどは仏教か儒教の勉強をしている人びとだったので、日本人の精神生活の中ではdesire的な状況は蔑まれる傾向にあったのではないか、なんて思う。欲などはしょせん知恵や修行の足りない大衆のものだったのだ。

庶民文化ではもちろん欲望が全開で花開いていたけれど、それも仏教や儒教が上に控えてフタをされていたために、ちょっと面白いねじ曲がり方をしてるんだと思う。日本文化の中にデフォルトで入っているホンネとタテマエのこの二重構造はとても面白い。

言葉は文化が作るもので、その中で生活する人びとはその文化と言葉の影響を受ける。
そして言葉は、何百世代にもわたって受け継がれている集合的な記憶と知識のあらわれでもある。

いまから千年後にまだ日本語を話す文化があれば、そこではdesire的な状況を示す日本語はもっと楽観的で気さくなものになっているような気がする。

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Engage エンゲージ 

2016-0909-1

語学学習者の中にはたまに、辞書に載っている訳語がその単語のすべてであって、言葉というものは地図の記号や化学式かなにかのようにゆるぎない「一対一対応」である、と思い込んでいるらしい人がいる。

もちろん、そんなことはない。

どんな国のどんな言葉も、単なる記号ではない。

言葉は文化であり、思想と感受性の反映であって、使う人あってのもの。
時代が変わり、生活と考えかた、ものの感じ方が変われば、当然言葉も変わる。

そして、その言葉が表す考え方、感じ方というのは、ほかの国の言葉にそっくりニュアンスを損なわずに移し替えるのが難しいことが、かなり多い。

辞書に載っている訳語は編纂した人びとが苦労して集めた「そっくりさん」たちなのだ。

日頃、英語と日本語の単語を相手にしていて、すっきり翻訳できる言葉や概念というのは、もしかして例外的なのではないかと思うこともある。

たとえば、とても翻訳しにくい言葉のひとつに「ENGAGE」というのがある。

日本語の中に入り込んでいる「エンゲージ」は「婚約」だけれど、それはこの言葉がもつ意味の中の、ほんの一部にすぎない。

「リーダーズ英和辞典」の訳語では、
(自動詞)
1.約束する、請け合う、保証する
2.従事する、携わる、乗り出す、参加する、関心をもつ、かかわる、交戦する
3.(歯車などが)掛かる、かみ合う、はいる、連動する
(他動詞)
1.         契約(約束)で束縛する、保証する、婚約させる、雇う、予約する
2.         従事させる、交戦する、(会話などに)引き込む、注意をひく、魅了する
…などがあがっている。
でも、ここに並んだ訳語を見ても、この言葉のイメージはつかみにくいのではないだろうか。

Google によると、engage の語源はフランス語で、もとは「なにかを担保に誓約する」という意味の単語だったそうだ。それが「契約」の意味を帯び、やがて「なにか、または誰かに深くかかわる」という意味になってきた、らしい。

いまのアメリカ英語では、「engage」はビジネスの場面でも、日常の場面でも、わりと頻繁に使われる。

会話にengage するといえば、スマホをいじったりせずに相手の言うことに注意と関心を向けて会話をする、ということ。

企業の多くが、社員がengageできる会社にすることを目標のひとつに掲げている。
仕事にengageしている社員とは、主体的に意欲を持って仕事に取り組み、会社の成功に対して当事者意識を持っている社員のこと。

engageは最近流行のマーケティング用語でもある。いかに多くの人に製品やブランドにengageしてもらうか、についてたくさん本が書かれている。
ブランドにengageするとは、そのブランドを自分の生活と価値観の延長として愛着を持つこと、を指す。

このマーケティング用語としてのengage/engagementという概念は、最近、日本でも「エンゲージメント」とカタカナ語になって輸入されている。

これらの文脈のengageとは、つまり、「主体的になにかの対象に意識を向け、働きかける」ということだ。

感覚としては「身を入れる」というのが近いのではないかと思うけど、「身を入れる」という言葉には、相手についての意識が低い。
engageには双方向の意識がはたらいている。
日本語には「engage」が表現する「歯車が噛みあうようにしっかり対象に向き合う/向き合わせる」をコンパクトに表す単語はない。

訳語としては、だから、その文脈によって「つながる」としたり「魅了する/される」「惹きつける」などいろいろひねり出したり、流行のマーケティング用語にならってカタカナを使ったりすることになる。

Google Ngram Viewerを見ると、19世紀初頭をピークに減っていた使用例が、60
年代からゆるやかに増え続けている傾向がわかる。

https://books.google.com/ngrams/graph?year_start=1800&year_end=2008&corpus=15&smoothing=7&case_insensitive=on&content=engage

20世紀後半、第二次大戦後に育った若者が大人になった頃から、アメリカ社会は激しく変わった。これは世界的な傾向ではあるけれど、とくにアメリカは、世界で最も豊かで最もひどい矛盾を内側に抱えた国家として、世界の中で真っ先に数々の大騒乱を巻き起こしてみせた。

公民権運動、反戦運動、東洋思想への傾倒、ウーマンリブ、フリーセックス、ドラッグ、ロックンロール、そして、やがてその後半世紀かけて人々の生活を完全に変えてしまう情報技術の台頭、経済の加速。

白人男性のエスタブリッシュメントたちが政治や経済を取り仕切っていた社会から、多様な背景・価値観・文化を持つ人々とつきあい、互いの価値を認めざるをえない社会へ。そして経済もテクノロジーもますます加速し、価値観が日々更新される目まぐるしい社会へ。アメリカは先頭をきって変わっていった。

Engage という単語は、そうした多様化しつつあらゆる面で加速する社会の中で個人に要求されている心の状態を、はからずも象徴しているように思える。

相手の注意をがっしりと捉える。意識を最大限に集中して主体的にその場に(あるいは人やモノに)向ける。

少し目を離しているとテクノロジーも政治も経済も社会の制度も常識も、どんどん変わっていってしまう。社会の中になにがしかの位置を占めたいなら、そのスピードについていかねばならない。

アメリカ企業のカルチャーの中では、常に変化についていくために、周囲のすべてに「エンゲージ」していることが要求される。

「Engage」は、1980年代後半からオンエアが始まった『新スタートレック』(原題は「スタートレック:ザ・ネクスト・ジェネレーション」)のピカード艦長のセリフとしても有名だ。

USSエンタープライズをワープ航法に切り替えて、光よりも速く移動する時に、ピカード艦長が全士官に出す命令が「エンゲージ」である。

この言葉の性格は、このピカード艦長の命令にとてもよく表れていると思う。

新時代には、みんなワープの速度で飛んでいかねばならないのだ。

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Reductionism 還元主義 

2016-0724-1

人間の知性や精神は、オーブントースターやクルマのメカニズムと同じように、小さな部品に分解していけるものなのだろうか?

「そんなものはできるに決まっている」とする考えかたを、還元主義(reductionism)という。

「還元主義」という日本語からはあまりピンと来ないけれど、reductionismという言葉には、なにもかもを単純な原理と単位にreduceしてしまう、つまり「矮小化する」「意味のないほど小さなものにしてしまう」というニュアンスがある。

どんなに複雑なシステムも、より単純なシステムに分解できる。というのが基本の考えで、もともとはデカルトさんが17世紀に書いた『方法序説』に端を発するといわれているそうだけど、現在ではこの言葉は自然科学から数学から社会学から、いろいろな分野で少しずつ違う理論に使われていてすごくややこしい。

ここでは社会学/神学/心理学に絞った話をすると、19世紀にダーウィンの進化論に刺激を受け、神とその原理という輝かしくて神聖なものと人間の絆を教えるキリスト教に対して、高らかに誇らしげに「そんなもんねえんだよー!」と宣言したのがreductionismの人々なのである。

夢判断のフロイトさんもその先鋒。精神病理は抑圧された欲望の引き起こしたものだという思想をさらに宗教全般に当てはめて、その著書『トーテムとタブー』で、宗教や芸術の起源はエディプス・コンプレックスだと言い切っている。つまり、宗教というのは病にすぎないと。

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こんな「還元主義」に対して、もちろん、聖なるものを信じる側の人々は激しい批判を展開してきた。

多分、宗教学や心理学方面の分野で「還元主義」という言葉が使われるようになったのは、人間の精神世界をreduce(矮小化)することを批判する立場からなのだと思う。

GoogleのNgram Viewerによると、reductionismという語の用例が急激に増えたのは1960年代以降で、1940年まではほとんど使用例がない。

宗教学者のエリアーデが反還元主義の代表選手だったし、『夜と霧』で有名な心理学者フランクルも、還元主義はニヒリズムを生むと批判している。

還元主義というのは、対立する立場の人びとからすれば「レイシズム」並みに忌むべき考えかただと言っていい。

ただし、レイシズムと違うのは、批判されている側が、その考えかたこそ人類の持つべき態度だと思っていること。まったく平行線なのだ。

フロイトさんたち還元主義の人々の主張は、単に自然科学の視点からこの結果が導き出されたという淡々としたものにとどまらず、それまでの教会の教えに基づく権威に対する、悪意といってもいいような反発を含んでいるように見える。

それはもちろん、相対する教会側の敵意を反映したものだ。

そしてこの構図は、いまもほとんど変わっていない。

2008年にロンドンの自然史博物館で行われた、進化生物学者のリチャード・ドーキンスと数学者で哲学者でクリスチャンでもあるジョン・レノックスのディベートにも、その対立構図がくっきり。この討論はYou Tubeで現在も公開されている。

討論のお題は「科学は神を葬ってしまったのか? 宗教はもう時代遅れになったのか?」というもの。

リチャード・ドーキンスは徹底的な無神論の立場から、「宗教はかつて人類が必要としたおとぎ話であり、我々はもうそんな子ども時代の幻想なんか捨てて大人になるべきだ」と主張する。

これに対して、ジョン・レノックスは、信じることの有用性を語っている。

信仰は人びとを実際に救い、人生を豊かにする。とにかくそれは事実であるのだ、と。

わたしは、ドーキンスの苛立ちも分からないことはないけれども、この世に神はいないと主張しても、べつに何一ついいことはないと思う。

「神か、科学か」を選ばなければならないというドーキンスの二者択一的な無神論の立場は、それと真逆の、自分の信じる聖典(コーランなり聖書なり仏典なり)に書いてあることの字義通りの解釈のみが正しいと主張する宗教原理主義者の立場とそっくりだ。

宗教原理主義者と戦闘的還元主義者に共通しているのは、「わたしの見ている現実がこの世で唯一の現実」だと主張してやまないこと、それをすべての人に押し付けようとしていること。

レノックスは現実主義で、「べつに真理とかは一つでなくてもいいじゃないか、それよりとりあえず結果が出ていることを大切にしよう」という立場。わたしもそう思う。

信仰する人にとって神は現実である。

それは本当に本当の現実であって、実際に奇跡は起きる。

歴史のはじめから人は神と対話をしてきたのだし、何千年もかけてその対話システムを更新してきた。20世紀以降、人類は色々なシステムが共存する世界をなんとか平和に維持しようとしてきたのではないか。

頭脳の数だけ現実があるのだから、神を信じる人に対して信じない人が「神などいない」と大上段に構えて言ったって、対話は始まりはしないし、信じる人が減るわけもない。無益なケンカが増えるだけである。

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教会に通う人が激減し、「世俗化」が進んでいるとはいっても、アメリカ人の70%は自分を「クリスチャン」だと考えているという。ただしそのうち4分の1は特に教会に通ってはいない。既製の宗教に進んで参加する気はなくても、育ってきた社会の背景に織り込まれていた神を積極的に否定するつもりはない、という人びとだと思う。

宗教に対するこの態度は、日本とさほど違わないんじゃないかという気がする。もちろんアメリカは場所によってまったく思想が違うので、熱心な原理主義的な宗教者が集中しているところも多いのだけど、すくなくとも都市部では、そんな態度の人が多いように思う。

一方で、日本人には、「自分は無宗教」という人が多いけれど、完全な「無神論者」という人はやっぱり少数派のようだ。

ICUの教授が学生を対象に行った調査によると、80%を超える回答者が「特に信奉する宗教はないけれど、何らかの神のような存在は信じる」と答えているという。

つまり、現時点ではまだ日本でもアメリカでも、多分ほかのどの国でも、大多数の人びとが何らかの形で神様、超自然的な存在、または超越的な存在を信じているし、必要としている。

そうして、ドーキンスのような還元主義者と、熱烈な宗教原理主義者とがバトルを繰り広げる傍らで、状況は静かに変わりつつあるのだと思う。

松尾豊さんの著書『人工知能は人間を超えるか』を読んでいたら、次のような一節があった。

「脳は、どうみても電気回路なのである。…人間の思考が、もし何らかの「計算」なのだとしたら、それをコンピュータで実現できないわけがない」

人を超える知能ができると信じる立場、これは究極の還元主義だ。

人間の知能を超える「本当の」人工知能が実現する可能性を荒唐無稽と考えている人は、人間の精神活動のすべてが計算/データであるとは認めないか、計算である可能性を考えてみたことがないかのどちらかだ。

いまのところ、まだヒトの意識というのは何なのか、どういうふうにできているのか、それから生命はどうやって発生するのか、とかそのへんが完全に解明されたわけではないから、還元主義者と神を信じる人の間で、決着はついていない。

でも、実際に人間の知性が再現できてしまったらドーキンスのような戦闘派還元主義者の究極の勝利になるかというと、意外とそうではないような気もする。

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「真理」のしくみは人間の知性には複雑すぎて、すべてを理解できるのは人工知能だけ、ということになるかもしれない。

そのとき、人工知能は「神」に出会うのかもしれない、なんて気もする。

だってね、すべての人間が本当に神を必要としなくなる社会がきたら、その人類はもういまの人類とは決定的に違った存在になっているはずではないでしょうか。

 

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Dichotomy 二分法

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アメリカ人、に限らず多分「欧米人」の好きなセリフに、「世の中には二通りの人間がいる…」というのがあります。

「世の中には二通りの人間がいる。何かを成し遂げる人間と、何かを成し遂げたと主張する人間だ。最初のグループのほうが、ずっと少ない」

というのはマーク・トウェインの言葉だそうです。

「世の中には二通りの人間がいる。知りたいと願う人間と、信じたいと願う人間だ」

というのはニーチェ。ふふふ。いかにもですねー。

「世の中には二通りの人間がいる。与える人と受け取る人だ」
「世の中には二通りの人間がいる。言い訳ばかりしている人と、黙ってさっさと行動する人」
「世の中には二通りの人間がいる。一緒にお酒を飲みたいと思わせる人と、酒でも飲みたいと思う気持ちにさせる人」

…と、この辺はセルフヘルプの本とか、引用句を投稿するのが好きな人のフェイスブックのタイムラインによくでてきそう。

西洋の人がどのくらいこの二分法が好きかというのは、「There are two kinds of people in this world 」で検索してみるとよくわかります。

「世の中には二通りの人間がいる。ピザの耳を食べる人間と食べない人間だ」
「フライドポテトにケチャップをドバドバかけてから食べる人と、ちびちびつけながら食べる人」…

こういうどうでもいい二分法は楽しいです。

わたしは個人的には

「歯磨きのチューブを真ん中から押す人と、端からきちんと押す人」

というのは、かなり重要な分類だと思っています。

2kindsofpeople」というTumblerのページには、いろんな「二通りの人」の図解が。ポルトガルのアートディレクターさんの作品です。
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二分法はたしかにとても便利です。

ただし、それはとても限定された範囲での便利さだということを忘れてしまうと、あとあと面倒なことになるのだと思います。

10代のとき、ピアノの先生に「ソナタ形式」というのは第一主題と第二主題の対立が提示され、その葛藤が展開部でいろいろと戦いを繰り広げ、再現部で主題が弁証法的融合をみるのだ、と教わりました。

これは文明の産んだもっとも優れた世界認識の方法のひとつ、とJ先生は力説していて、10代のわたしはスゲー、と恐れ入って脳裏に刻みつけたのですが、別にその後ヘーゲルを読みふけったわけではないのでベンショウホウテキユウゴウとか止揚とかが実際なんなんだかはあんまりよくわかりません。そしてJ先生の力説していた内容の8割くらいは忘れてしまっているので、たぶん肝心なところが抜け落ちているのかもしれません。

だからアレではあるのだけど、ともかく
「人間は、対立する二項目で世界を認識するのがデフォルト」
というのはほんとだよな、と、これまで生きてきて目撃した中ではそう思います。

何かと対比してみて、「〇〇ではない」ということが分かって初めて、「XXである」ということの意味が分かる。

「世の中の人間には…」にたまに3通りバージョンがあることもあるけど
(「人間には3通りある。困難なときにあなたを助けてくれる人、困難なときにあなたを見捨てる人、そしてあなたを困難に陥れる人」というのも有名らしいです)
これはたいていの場合、二分法のバリエーションと考えていいと思います。
(映画『アメリカン・スナイパー』に出てきた、羊と狼と牧羊犬、というたとえは本当の3分割だと思うけど、それはまた置いておいて)

で、世界を認識するためには二分法で分けて考えるのは便利だしステップとして必要だけど、それが普遍的とか不変の真理だと思い始めると、きっとその瞬間から世界はやせ細っていくことになります。

展開も再現もしないで提示部だけずーっと永遠に続くのは、それは閉じたゆきどまりの世界。

なんか最近、ネットの言説をさらっと見ていても、便利なカテゴリー分けが好きな人が多いのかな、なんかやだな、と感じるようになりました。

世界には二通りの人間がいる。型にはまった考え方を好む人と、型について考える人。

なんてね。

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Mind Wandering 意識がウロウロ

2016-0127-1-2

このあいだ、夕飯をの支度をしながらポッドキャストのTED Radio Hourで「ハピネス」というテーマの番組を聴いていたら、「人の幸福度とmind wandering をしていないことには相関関係がある」という研究結果を発表している人のトークが紹介されてました。

マット・キリングワースさんという科学者の発表です。
トーク自体は2011年のもので、日本語字幕つきのバージョンがTEDのサイトで紹介されています。

彼の研究は、1万5000人という膨大な数の人を対象に、モバイルアプリで「今、この瞬間に幸せか」「何をしているか」などを選択して答えてもらうというもの。
そうして集めたデータで、幸福度は、何を持っているかとか何をしているかよりも、「mind wandering」していないとき、つまり目の前のことに没頭しているときに高い場合が多いことがわかったのだそうです。

気が進まない仕事をしながら他の楽しいことを考えているよりも、気の進まない仕事に集中して取り組んでいるときのほうが幸せである、たとえ渋滞に巻き込まれていても、車の運転だけに集中している人のほうが、その瞬間は幸せである場合が多いというのです。

渋滞の中はともかく、これはきっと多くの人が実感していることではないでしょうか。

この結論は、心理学者のミハイ・チクセントミハイさんが発表している「フロー」の理論とも重なります。

で、ポッドキャストを聴きながらその「mind wandering」というキーワードは日本語にするならどう訳すかなと考えていたのですが、トークの日本語字幕ではひとつの訳語をあてず「注意散漫」「他のことを考える」「気が散る」など、文脈に合わせて柔軟に訳していました。無理なく頭に入る素晴らしい訳だと思います。

が、あえてこの言葉だけ取り出すとしたら、どんな訳がいいか。

わたしは個人的に「意識がうろうろ」する、というのが一番しっくりくると思う。
TEDの人には却下されるだろうか。

ああ、また意識があてのない旅に出ようとしている、または出てしまっている、と思う瞬間が、1日のうちにいったい何度あることか。

チクセントミハイさんは、その人がしている行為のチャレンジスキルがどちらも高いとき、人は「フロー」の状態に入りやすくなると解説してます。
「フロー」の状態とは、無我の境地ともいえるもの。自分も時間もなくなり、完全に目の前のことに没頭し、結果が出せると確信している、そのことや自分の行為について意識してさえいない状態。仕事でも芸術でも、生活のどんな場面でも、フローの時間が多ければ多いほど幸せってことのようです。

「意識がうろうろ」するのはきっとスキルとチャレンジが釣り合っていないときに起こりやすいのでしょう。
私はとっても意識がうろうろしやすいタイプ。

翻訳の仕事中「フロー」に入っているときは確かにとても幸せだといえるのですが、意識がものすごくウロウロすることも、ものすごく多い。とくに何かちょっとややこしい文章を解読しようとしたり、馴染みのない概念についてリサーチしようとしているとき、意識はもう大変な勢いでウロウロしはじめます。

インターネット空間は、意識がウロウロするのには本当にもってこいの環境ですね。

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Anthropomorphism 擬人化

2016-0118-1

Anthropomorphism  擬人化。

長くてなかなか覚えられない単語。

去年、萌えガールズのキャラクターを付与された戦艦と、BL的なイケメンキャラの顔と人格を付与された日本刀をコレクションするというゲーム『艦これ』アンド『刀剣乱舞』の存在を知って、かなり動揺したのですが。

「擬人化」で検索してたら、Twitterをポニーテールのかわいい女の子として描くSNS擬人化マンガがあってびっくり。
ツイッターさん

…よく捉えてる。で、やっぱり無邪気なちっちゃい女の子なのね。
ドヤ顔の「フェイスブックさん」や自意識過剰な「スカイプさん」もでてきてかなり面白いです。

誰か、かわいい男の子の人格をもつ「ツイッターくん」マンガを描いてくれないかな。

と思ってたら今度はトヨタがプリウスの部品を萌えキャラに擬人化したコマーシャルを打つそうです。トヨタ……本当にそれでいいのか?プリウスのお客さんはそうなのか?

このような擬人化が自在にできるのというのは、マンガの持つカオス的なまでのパワーであることよ。と思います。

『艦これ』の擬人化は『きかんしゃトーマス』の擬人化とは次元が違う。

こういう高度な擬人化がさらっと自然にできてしまうメディアって、マンガをおいてほかにちょっとあんまりないのでは。

マンガの一ジャンルである風刺画で国家や政党なんかを擬人化したものはよくあるけれど、あれはドラマではなくて状況を描写しているものだ。

あとはApple のMicrosoft君をおちょくったCMくらい。

戦艦を女の子に擬人化して、しかもそれをストーリー仕立てのゲームでコレクションするという発想は、日本人の持つ特殊な能力というか病というかどっちかわからないけど、あまりほかにない文化には違いないと思います。

それはきっと、吉原と密接に関わりながら育ってきた浮世絵から受け継がれたマンガが育んだ感性。病んでいるといえば、まあきっと病んでいるのだろうけど、異常なまでに洗練されてもいる。西洋のヒト対ヒト、そして神対ヒトの相対する文化とはやっぱちょっとあり方が違う。

田中優子さんのめちゃくちゃ面白い『江戸はネットワーク』という本に、山東京伝のメジャーデビュー作となった『御存知商売物』という黄表紙が紹介されてました。これは赤本、黒本、黄表紙というジャンルを擬人化したお話。黄表紙というのは「文字も絵も同等に共存」する新ジャンルだったという。これがマンガの祖先に違いないと思うのだけど、得意の擬人化はここからもうすでに始まってたんですね。
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